わたしは小学生の頃、毎日食卓に並ぶローソンのお弁当とからあげクンを見て歓喜した。
スイーツがある日なんかは海賊の宴のような状態のテーブルを見て椅子の上に立って自作のダンスを踊ったぐらいだ。

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中学生に上がり、今後ずっと付き合っていくことになる最高の友達を見つけた。
その子の家へ遊びに行ったとき、二人で好きな子の話やウザイ先生の話などに夢中になり気がつくと18時を過ぎていた。
慌てて帰ろうとする私に友達は、「晩御飯食べていけば?」と聞いてきたのでわたしは、迷わず「うん」と答えた。
友達のお母さんはとても優しく綺麗な人で、私が人様の食卓に猫のように悪びれもなく当たり前の顔で鎮座していてもニコニコと笑ってご飯をお茶碗によそってくれた。

その日の食事はさばの味噌煮だった。
お腹が空いていたのは紛れもない事実だが、なぜかわたしは食欲がなくなってしまった。
茶色い魚と、茶色いお味噌汁、付け合わせの黄色い沢庵。なんだか、すごく地味だわ。中学生の私はご厚意で用意していただいた食事にそんな泥を投げつけるようなことを考えていた。
いつもみたいな、海賊みたいな豪華な食事の方が好き、からあげクンの新しい味を食べているときが一番幸せ。そんなふうに考えながらさばの味噌煮をいただいた。

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25歳の時に初めて彼氏と同棲をした。
わたしが毎日ローソンのお弁当を買って帰ってくる姿に彼氏は幻滅したそうで、交際期間2年半、同棲3ヶ月のところで別れを切り出された。

私は心が悲しいという気持ちと共に、頭にはてなマークが100個くらい浮かんだ。
それは別れ際に彼が、「もっとちゃんとしたものを食べたい。栄養と愛情があるもの」と言ったことが気にかかっていた。
ローソンのお弁当はちゃんとしたものじゃないか。
栄養があって、わたしの体はほぼローソンのお弁当とからあげクンでできているんだぞ?
と心中で彼に投げかけた。が、当たり前の如く返事などなく彼は去っていった。

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愛情の度合いをご飯の質で計るものなのか。

新しい発見をしつつも、私は腑に落ちていなかった。
ご飯を作ってくれるのが愛情、洗濯をしてくれるのが愛情、毎日連絡を返してくれるのが愛情、お金をくれるのが愛情。

この世にある様々な愛情は必ず、なにかによって計られている。
差し出さなければ愛されない、愛されたいのなら差し出す。
私はローソンのお弁当を毎日差し出していたが彼にとってそれは計測不可な無価値なものだったのだろう。

差し出された愛情の度合いを一々計測し、デパ地下のお惣菜売り場の店員さん如く、金額を伝え支払いモノを渡す、そんなものは、そんな一々計られた愛情は愛情と呼べるのだろうか。