好きな食べ物はたくさんある。
フカヒレの姿煮、キンキンに氷で冷やされた牡蠣、蟹、いくら、海老、焼肉!
あれが食べたい、これが食べたいと考えているだけで幸せ。食事は心の栄養そのものだ。
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山のようにある大好物の中で、特別な記憶と共に思い出されるのは、卵焼きのおにぎり。
卵焼きは各家庭によって、甘い派、しょっぱい派に分かれるが、わたしの母はしょっぱい派だった。
母は関西人だからか、ヒガシマルのうどんスープを日々の献立によく活用していた。卵焼きにもだ。
であれば、だし巻き玉子と呼ぶ方が正しい気もするが、卵焼きという響きが可愛くてわたしの好みだ。
母は幼稚園から始まり、小中高、看護学校、社会人に至るまで、毎日わたしにお弁当を作ってくれた。食が細く、しかも食べるのがとんでもなく遅いわたしを想い、お弁当作りにはいつも力を入れ、色とりどりの食べやすいおかずとデザートをせっせと詰めてくれた。
おにぎりの具には、いつも卵焼き。卵焼きはそのままで食べても十二分に美味しいのに、おにぎりになんと合うことよ。卵と米はベストカップル!これぞマリアージュ!とお気楽学生のわたしはルンルン喜んで食べた。
「食べてる時がいちばん幸せ!」
大袈裟にではなく、本当に毎日そう言いながら食べていた。
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いま、わたしには子どもがふたりいる。
この世にある素敵なものをすべて合わせても、とうてい敵わないくらい可愛くて愛おしくてチャーミングでブリリアントな子どもたち。
細胞レベルで愛している。
……愛しているけど、10年以上この子たちにお弁当を作りつづけられるかと問われれば、絶対に絶対に無理……。がんばれない。がんばりたくない。
可能ならば、給食のある幼稚園や小学校を選んで通わせたいし、社会人なら冷凍パスタでも持っていって給湯室の電子レンジを借りてチンして食べてほしい。
お弁当を作らないからといって、わたしが子どもたちを愛していないことにはならない。人には得手不得手があり、がんばれることをがんばったらいいのだ。
お母さんだからお弁当を作らないといけないという法はない。
お父さんが作ってもいいし、ふたりともお弁当作りに体力や情熱をそそげないなら、買って持たせてもいいはずだ。
かつて世間の女性をすべて敵に回した「ポテサラおじさん」の論法は間違っている。
でも、母はわたしを愛していたから10年以上もお弁当を作れたのだろう。
これが愛でなければなんと呼ぶのか。J-POPの歌詞みたいなことを言って自らを茶化してみるが、やはり愛だろう。母はわたしを愛していた。
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スーパーチャーミングな素晴らしい夫と結婚したわたしは、実家とさほど離れていない、隣の市へ引っ越した。
結婚し、すぐに妊娠して幸せの絶頂!だったが、そんなわたしを笑うかのように、つわりの洗礼は揚々とやって来た。
体が何やらぐるぐると気持ち悪く、何が食べたいのか、食べたくないのか分からなくなった。昨日食べられたものが今日は美味しくない、なんてこともあった。
つわり以前にホームシックもあったのだろう。結婚するまで実家を出たことはなかったのだから。
夫が帰宅するまで、毎日心細くて仕方なかった。早く帰ってきて、とまだまだ帰るはずのない時間から窓の外をじっと眺めた。
……そうだ。あれなら食べられるかも。食べたい。
なぜ忘れていたんだろう。急に思い出し、帰宅した夫に卵焼きのおにぎりをねだった。
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快諾した夫に、あのね、ヒガシマルのうどんスープでね、と偉そうにレクチャーし、いま炊き上がったツヤツヤの白いご飯に卵焼きを潜ませ、おにぎりにしてもらった。
……うわー。美味しい……。
懐かしくて美味しくて、夫に隠れて少し泣いた。愛して、一生懸命育ててくれた母を想って。母に代わっていまニコニコと台所に立つ夫を想って。
あらゆる記憶は食べ物と共に思い出されると、わたしが子どもの頃、母は言っていた。本当だったね。
愛してくれてありがとう。