彼が愛したのは”アジア人の”わたし。そう気づいて手放し、得たもの

30代を過ぎて海外へワーキングホリデーに来ている。いわゆる「ギリホリ」というやつだ。まさかこの年齢でこういう経験をするとはワーホリ適齢期の頃は夢にも思わなかった。海外へ出た理由はちょっとした気まぐれである。
わたしの中で「生活を営む」の定義は”自身で生計立てること”だ。衣食住をするために自身の強みを仕事にし、その生活の中で様々な人間関係を育みながら生活を彩る。今のわたしはさながら「魔女の宅急便」のキキのようだ。しかし流暢な英語を話せず朗らかな会話もできない、ましてや箒に乗って空も飛べないわたしの場合仕事にありつくのは大変だったけれどなんとかローカルな職場にご縁をいただいた。家も同じく現地の女性たちとシェアハウスで共に住みながらたまに食事を共にし、いい関係を築いている。
しかし母国語でできることがこちらではできないのはやはりストレスだ。今の環境は素晴らしいものだと思うけど、やっぱりテンポのいい会話をしたい。軽いジョークも伝えられないのは楽しい会話を何よりも大切だと思うわたしにとって歯痒さしかない。そんなだから会話も少し億劫になりがちだ。そしてそれと同じくらい会いたい人にすぐ会いに行けないのは思っている以上に辛いものがあるのだと痛感した。
そんな時に出会ったのが海外国籍の彼である。彼も同じく異国からこの地にやってきていた。出会いは偶然だった。出会ってからそんなに経たないうちに彼から言われた「愛し始めている」という言葉は、遠く日本を離れ生活をするわたしにとってかけがえのないものになってしまった。寂しさは人を弱くさせるというが、これは本当だと思う。徐々に紡いできた愛しさがその瞬間、堰を切ったように溢れ返った。
程なくして交際をスタートさせたが、私たちの会話には常に大きな溝があった。それはどう頑張っても1日2日で変わるものじゃない。だから彼への行動やストレートに伝わる言葉を探す努力をしてその溝を埋めようとした。会話だけじゃなく、それ以外でも愛を伝えようとトライしたのだ。彼も同じ考えだった。私たちはうまくいくはずだった。でもわたしは気づいてしまった。彼が愛しているのはわたしじゃなくて、”アジア人である”わたしだった。
みなそれぞれ違う顔、身体、パーソナリティーを持っている。それはすべてその人の強みだ。だからわたしの国籍すらもわたしの持つ強みであることに変わりはない。しかしわたしが人生を通して得たいものはわたしの強みをすべて取っ払った中にいるわたしを愛してくれる存在なのである。セルフラブも結構。大いによろしいが、それでも他者から愛されたいと願ってしまうわたしは自身を愛せていないのだろうか。
色々考えたが結局わたしは別れを選択した。人の考え方はそう簡単に変わるものじゃない。自分が変われないならば相手に変えるように期待をするのはフェアでないと思うのだ。思ったが吉日、気持ちをメッセージで送ることにした。最後なんだからちゃんと面と向かって伝えたかったが、直接会ったらわたしはきっと自身の執着心に負けてしまうと思った。不思議なものでその時のわたしの頭は論理的に動いた。余計な言葉は書かず、ただ目的を遂行するに近い文章を作成した。それにそこまで時間はかからなかった。けれど送信ボタンを押す前、一瞬ぐらついた。今のわたしの生活を彩ってるのは間違いなく彼だったからだ。夜のビーチでわたしを抱え上げてくれた時も元気がない時に花束を持って会いに来てくれた時も、あの時感じた愛おしさはその時も心を温かくしたけれど自分のことを本当の意味で幸せにできるのは自分しかいないのだともう知っている。深呼吸した後、彼にメッセージが届いた。
それでもわたしはなんとか生きている。彼から得られていたものはすべて手放したけど、その代わりにわたしは自分を1番に大事にできるという自信を得ることができた。1度きりの人生、何を手にすれば自分が幸せになるかなんて本当は自分が1番よく分かってる。だからどんな時もわたしらしくいられるように痛みを伴いながらも歩き続けるのだ。
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