依存した「確認行為」。被写体を卒業して穏やかに生きられるように

人間は、自分の顔を自分で見ることはできない。
お店のガラスに反射する自分、服屋の鏡に映る自分、内カメで自撮りをした時の自分、他撮り(他人に撮られた写真)の自分。
私は、どれが「本当の自分」なのだろうと不安でいっぱいだった。長年の視線恐怖症も、そのためだった。「もし自分の顔が、普段の写真より醜かったとしたら?それを今、見られてるんだ」と意識してしまい、目の前の相手の目を見ることができなかった。
一度、仲良くなった同級生に「会話の時に目が全く合わなくて、最初は感じが悪いと思っていた」と言われてから、必死に相手と目を合わせるようになった。
そんな中、私は「被写体」を始めた。
きっかけは、カメラマンの友人と遊んだ日に、自分のことを可愛く撮ってもらったことだ。そこから、定期的にカメラマンの友人と出かけるようになり、公園や喫茶店などで撮影してもらうことが増えた。
それらの写真をきっかけに、衣装のフリーモデルやサロンモデルのアルバイトも経験した。
私は次第に、「被写体」を通じて、自分の容姿が美しい状態であることを確認する行為に依存するようになった。
インスタグラムの投稿やストーリーに「被写体」としての自分を載せ、いいねやコメントなどのリアクションがあると安心する。そんなことを繰り返した。
もちろん大前提として、友人の撮影してくれる写真はとても素晴らしい。しかし、私が勝手に依存していったのである。
例えば、自分の鼻が低く写っていると感じることが増えた時期は、美容整形について熱心に調べた。ヒアルロンサン、ビセンケイセイ、ジカイナンコツイショク……初めて聞く言葉ばかりだったが、X(Twitter)で整形垢のツイートを漁ったり、さまざまな美容クリニックのホームページで症例を見たりした。気づけば、有名な執刀医や美容クリニックの隠語までわかるようになっていた。
気づけば、部屋にある鏡を見て、「ここをこう”直せば”、可愛いのにな」と考えるのが日課になっていた。
それと同時期くらいに、私は大学院でフェミニズムを学んでいた。男性優位な社会やそれが生み出した偏見などをインプットし、日々の小さな会話にも違和感を持ち始めていた。
「女の子なんだから」と言われたとき、自分の服装について「エロい」と言われたとき。自分は1人の人間として大切にされてないのかもしれないと考えるようになった。
次第に、「被写体」として男性にチヤホヤされることは、女性の客体化そのものではないか?と考えるようになった。つまり、自分は「可愛いお人形(あるいは性的な女体)」として見られているだけではないか、と疑い始めたのだ。
「被写体」を通じて、「女性らしさ」への抵抗を表現しようと試みたこともあった。しかし、多くの場合、そんなことは上手く表現出来ていなかっただろう。
「可愛いと言われたけど、これは下心なのか、作品として良いと思ってもらっているのか、どちらなのだろう」と悩む日々が続いた。あんなに求めていた「可愛い」という言葉が、大嫌いな時期もあった。悩みながらも、自分の写真をSNSにアップすることはやめられなかった。
結局、大学院を卒業して、撮影の機会がなくなったことで、「被写体」を卒業することができた。
浮腫んだ日の「今日は写真写りが悪いかもしれない、どうしよう」という深刻な不安。「女体として見られているのではないか」という不安や苛立ち。
そういったものから卒業でき、私はとても穏やかな日々を過ごせている。恋人と食べるラーメンは、今日もとても美味しい。
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