社会人2年目のこと。私は、忙しい毎日を送っていました。日々の速度は上がる一方で、それが止まるなんて、思ってもみませんでした。だから、その日々に終止符が打たれた時、すぐには受け入れることができませんでした。

いつもの通勤の朝、私は駅の階段から落ちました。あと数段で下りきるところだったので、それほどの被害はないと思い、私は痛みを我慢し出社しました。でも、数時間も経てば原型をとどめないくらいにふくれ上がってくる足。同僚たちにすすめられて行った病院で、捻挫と診断されました。

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松葉杖をつきながら何度か出社しました(途中でリモートワークに切り替えてもらいました)が、通勤時の周りの速度に、私は改めて圧倒されることになりました。

家から駅までの途中で何人もの人に追い越され、駅の構内でも周囲の凄まじいスピードから置いていかれ、まるで自分だけ違う時空にいるかのような感覚に陥ったのです。と同時に、自分がそれまで、どれほどの速さで生きていたかを知ることになりました。

1週間ほど経って松葉杖なしで何とか歩けるようになっても、元の速さで歩くことはできません。でも、初めのひどい痛みがなくなってくると、私は自分の目に映る景色が変わったような違和感を覚えました。動画の再生速度を変えたかのように、ゆっくりと景色が流れていることに気がついたのです。

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周りの人の速度は、以前と変わりません。自分の速度だけが遅くなっています。そのことで、置いていかれているようにも感じました。でも、景色は、私を置いていってはいませんでした。むしろ本来の速度に戻って、そこに存在しているのです。

「どれだけのものを、私は見落としていたんだろう」

昨日は咲いていなかった花が今日は咲いていたり、駅へと急ぐ私の頭の上では雲がゆっくりと動いていたり、木から葉っぱや実が落ちたり。ゆっくりとしか歩けなくなったことで、私がこれまで見落としてきた風景が、急に目の前に現れたのです。

忙しい日々を送っているのだと思っていました。日々の速度も人生の速度も、年々上がっているのだと。でも、速度を上げて動いていたのは、私自身でした。しかも、それは私が望んだ生き方ではありませんでした。

私は、足が治ってきてからも、ゆっくり歩くことを意識するようになりました。もう、速度を上げて生きるのはやめたいと思ったのです。

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自分がゆっくり動けば、同じようにゆっくりと動く風や虫たちと呼吸が合うような気がしました。そんな私を、一本でも早い電車に乗りたいのか、足早に追い抜かしていく人もいます。でも、私は速度を変えません。数分早く目的地に着くことよりも、目の前の景色を味わって、木々から落ちる葉っぱを一枚でも多く目にする人生の方がいいと思ったからです。

気がつくと、通勤時の車内で見る動画も、本来の速度に戻っていました。それまでは、オリジナルの速度で見ることが時間の無駄のように思われて、1.5倍速や2倍速で見ていました。でも、自分自身が本来の速度に戻ったことで、早口でまくし立てるような動画が、何となく肌に合わなくなってきたのです。

「ゆっくり生きてみよう」などと思ったわけではありません。でも、本来の速度に戻っていくことは、私にとっては心地いいことでした。

きっと、ものごとには適した速さがあるのです。怪我をする前の私は、少し、生き急いでいたのでしょう。ちょっと周りの自然や風景を楽しめるくらいの余裕を、必要としていたのかもしれません。だから、慌ててりていた階段から落ちたのだろうと、今は思います。