狭い車中、愛しい音楽、あじさいの花。大雨の日曜日に蘇る梅雨の記憶

梅雨の季節はまだまだ先だけど、これを書いている今日4月13日は朝からずうっと雨。
その勢いはなかなか弱まらず、むしろ昼過ぎからは地面や屋根を打つ音が大きくなっている。iPhoneのお天気アプリも「雨」ではなく「激しい雨」の表示。
夕ごはんは外で食べようか、なんて話をしていたから、夜までにはもう少し弱まってほしいなと願いつつ、家の中でおとなしく過ごす今。日曜日の今日は、他に出掛ける予定はない。
雨は好きじゃないけれど、濡れることのない守られた場所で聴く雨の音はむしろ好きなほう。
レースカーテンをほんの少しめくった先に広がる外の世界はいつもと全然様子が違くて、少しだけ鼓動が速くなる。窓の向こう側とこちら側にはガラス1枚以上の意味を持つ隔たりがあるような気がして、自分が今いる場所は誰にも攻撃できない安全な空間なんだと思わせられる。そんな、ひと息つける空間で聴く雨の音は、なんだかとても愉しい。透明なガラスに不規則な模様を描く雨垂れも、すごくきれい。
雨に対してそんなふうに感じるようになったのは、いつだかの梅雨の季節だった。
必ずしも忌み嫌うものではないんじゃないか?と思ってはいたけれど、その時点ではまだまだ漠然としていて、誰かに伝えられるほど言語化はできていなかった。
そんなとき、「雨って結構好きなんですよね」と、隣の運転席でハンドルを握っていたひとが言った。7月の頭、まだ梅雨明けはしておらず、ひどい雨の日だった。助手席に座っていたわたしは、「わかります」とはやる心臓を静かに抑えながら同意した。こうこうこういう理由で好き、と、そのひとも明確に言葉にしてくれたわけではなかったけれど、おそらく抱いている感覚は限りなく近いんじゃないかなと勝手に思った。車中は狭いけれど、外の世界からは切り離されている。でも雨音ははっきり聴こえるし、目の前のフロントガラスは街灯やテールランプの滲んだ光で彩られている。
好きなもの、美しいと思うものが同じひとに出会えたときは、いつだってうれしい。一見すると天気は最悪のはずなのに、そのときのわたしにはそうは思えなかった。
雨ならではの心地良さに浸っているとき、頭の中で流れる音楽はいつも同じだ。[Alexandros]の「Adventure」という曲。音源だけじゃなく、ミュージックビデオも再生される。この映像が、たまらないのだ。画面を伝う雨の筋、やわらかい雫、色とりどりの傘。「雨も悪くないな」と自然と笑みがこぼれ、決して灰色1色なんかじゃない色彩の豊かさに胸打たれる。思えば、この映像が公開されたのも梅雨間際だった。
去年の梅雨は、そうだ、あじさいを観に行った。
200種類以上・約7,500株が咲いているという、とあるお寺のあじさいまつり。空はどんよりと曇っていたけれど、負けじと花開くあじさいからは強い生命力が感じられた。色合いも、姿かたちもさまざま。あじさいは土壌環境によって花の色が変わる。一般的に、アルカリ性の土壌では青、酸性の土壌ではピンクの花が咲くらしい。それを初めて知ったとき、面白い花だな、と、わたしは久しぶりに愉快な気持ちになった。
今外で降りしきる雨から呼び起こされるままに、散らばった梅雨の記憶をそのまま放り出してしまった。でも、たまにはこんな日曜日があったっていいか。
今年の梅雨は、一体どんな季節になるだろう。どうせなら、雨ごと抱きしめちゃいたくなるような、そんな日々を送りたい。
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