「おはよう」と言えば「おはよう」と返してくれる同期に囲まれて大学生活を送っている。人見知り克服したくって!と笑いかければ大体のひとは(憐れみもあるのか)優しく接してくれるし、自分と似た属性の人がいない環境に飛び込めば珍しがってもらえる。長くなってきたコミュニティそれぞれで必要としてもらえているし、節目節目で尊敬できる人たちと出会えている。間違いなく恵まれている。そう思うのに、自分の人生に手応えがない。

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中高と仲良くしていた同期が院進までのギャップイヤーを利用して沖縄に移住した。超一流の大学を卒業して、この先どうするんだろうと話していた中での決断だったから驚いた。楽しそうな様子はたまにするDMでのやりとりやインスタのストーリーから伝わってくるし、そもそも人生を楽しむことに長けているひとであるのは知っている。彼女は人生にどのくらいの手応えを感じているんだろうか。もしかしたらそんなこと考えもしなかったと言われるかもしれない。少なくともわたしには、選択の連続の人生、しかもそれらをことごとく正解にしてきたように見える。

大学からの帰り道、このままどこか遠くに旅に出たいなと夢想しながら、明日の集合時間から算出される起床時間のアラームをセットしている。ぜんぶ投げ出したくなった夜に2ヶ月先のコンサートのチケットを取った。普段の行動からして矛盾にまみれているから、人生に感じている手応えのなさもこういう矛盾のひとつなのかもしれないと思う。手応えがなく矛盾まみれの人生の先を、どう想像しようか。

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少し前に、好きなアイドルが「自分で炊いたごはんでつくった納豆ごはんを、家のお箸で食べたい」と話していた。どこで生きていくか決める、という選択を限りなく日常に引き寄せると、そういう話になっていくのかもしれない。わたしには発作的にとんでもなく辛いラーメンが食べたくなるタイミングがあって、何日かならスーパーで売っている3つ入り1パックのもずく酢でその欲求を先延ばしにできる。要するに、今のわたしにとってもずく酢がない環境は恐怖だし、辛いラーメンを食べるのにめちゃくちゃ遠出をしなくてはいけないところには住めない。そういうところでは生きていけない。

暗い道を歩くのが得意じゃないから街頭が少ないところは無理だけど、割とどこでも眠れるから多少うるさくても狭くても大丈夫。仕事はちゃんと目標に向かって進めている実感がないとしんどい。このままだと手にしたいスキルを身につけられる場所を数年単位で転々とすることになりそうだ。そのくらいのささやかな選択たちを重ねた先に流れついた先が、わたしの生きる場所なのかもしれない。ぱっと見の派手さも、確かで強い気持ちもなくても、手応えがなくても、生きてはいけると他でもないわたし自身が一番よく知っている。ささやかな選択を重ねた先の人生を愛おしむことができたなら。それはそれで悪くない生き方だと思う。