真面目で優等生だった私が1回だけ朝帰りをした日があった。大学4年生の初夏の頃、進もうと思っていた大学院への進学に疑問を持ち始めた。けれども就活もしていないし、つい最近まで大学院進学を考えていた私は、未来を考えることを先送りにしていた。

働くことが目の前に来た時に、何を仕事にしたいのかも、働くとはなんなのか、将来どんな人間になりたいのかすら分からず、それを考えることすら嫌でとことん未来から逃げていた。

十分すぎるほど悩んでいたのに、それを人に相談すらできない。それもまた自分を苦しめ、浮上する術を無くしていた。そんなときに彼と話すようになり、他人には見せないようにしていた部分を簡単に見透かされた。強い振りを続けていたことを見抜く人に出会ってしまったら、甘えたくもなる。

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「家に帰りたくない」

家に帰ると現実がやってくる。そこから逃げるようにお酒を飲んだ。それでもめちゃくちゃに飲まれないところに優等生の血を感じる。自我は保ちつつも、心に従いたくなっちゃうくらいのふんわりとした酔いの中、「帰りたくない」と彼に甘えた。身体の関係を許したわけじゃないけれど、この人ならしないだろうと、根拠もない自信があった。でも彼ならいいとも思っていた。彼の家に行くことも提案されたけれど最後の意地でそれだけは避けた。

ぶらり、夜の街を歩く。知らなかった街の景色。夜なのにまだ明るい。終電も終わりそうな時間なのに、人はこんなにも多いのかと驚いた。眠ってしまえば近い朝も、眠らない夜の朝は遠い。明日が遠いことが、今だけは私の心を軽くさせた。でも一晩中起きていることもできないし、酔いもあって歩くのも辛くなってきた。どこかで休みたいと、空いていたカラオケに入って、初めて彼と完全な二人きりになった。

薄暗い部屋の中で、これ以上ないくらいに彼のことを意識した。酔いが覚めそうだった。もう寝ようか、という声かけに、そうだねとぎこちなく返す。「意識しているのは私だけ?」と思わざるを得ないくらい、いつも通りの冷静な彼。

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さすがに寝ようかとソファに腰かけた時に押し倒された。彼ならいいと思ってたのも本心でありつつ、それでも焦った。冷静な私は「自暴自棄になると人はこんなことできるんだな」と自分を蔑んだ。私はこんな人間だったんだと落胆もした。やさしく唇同士が触れた。触るか触らないか分からないくらい、ほんの一瞬、恐れるように触れた。

心臓が耳の横にあるくらい、鳴る音が頭の中に響いていた。唇が離れたかと思ったら、抱きしめられた。なんだかとても安心してしまった。そしてそのまま朝が来るまで眠った。

始発の電車が動き出す頃、私たちはカラオケを後にした。「海を見に行こう」と早朝の電車に乗って海に向かった。潮の香が強くて鬱陶しいはずの湿気すら愛おしく思えるような、なんだか清々しい朝だった。はじめて家に帰らなかった日に、こんな清々しい思いをして良いのだろうか。

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あの日を境に私は少しずつ彼に話し始める。今まで自分を大きく魅せていたこと、それが辛かったこと、これからを考えられないこと、未来の不安、たくさん話した。こんなに自分の弱いところを出したことは無い。

あの日、体の関係にならなかったから、今日まで彼との関係を続けられているのかもしれない。彼を信頼できているのかもしれない。彼が何をどう思い、私と共にいてくれたのか分からない。彼の真意はわからなくとも、弱さを見せたあの日を境に私の人生はゆっくりと動き出した。