「ごちそうさん」街角の小料理屋で、食べることは生きることだと知った

駅から少し離れた住宅街の一角に、その小料理屋はあった。
のれんがかかると、今日も一日が始まる。私は大学時代、その店で数年間アルバイトをしていた。
店は小さく、テーブルが数卓とカウンター。
でも、ベビーカーも車椅子もOKで、常連さんの子どもも年配の方も障害がある方も、誰でも受け入れてくれる空気があった。
お酒を出すけれど、酔っ払いでうるさくなるようなお客さんは一人もいなかった。
優しい雰囲気のおかげか、お客さんにも恵まれたお店だった。
お店には偏食の激しい女の子とお父さんも時々来ていて、その子が食べられるメニューをマスターは完璧に覚えていた。
「あの子が食べるならグラタンもジャガイモは抜かないとね」と、顔を見ただけでわかるのだからすごい。
その父娘は食事中以外は各々本を読んでいて、二人の間に会話はないのだが、いつも帰り際には「今日も良かった!」とお父さんが嬉しそうに帰っていくのだった。
このお店って、"食べる"だけの場所じゃないんだなと、あの頃から思い始めていた。
そんな中で、私の記憶に特に残っているのが、92歳の常連のおじいちゃんだ。
戦争を生き抜いた豪傑で、戦後は社長として会社を切り盛りしていたらしい。
若い頃はきっと、どこでも通用するような威厳のある人だったんだろう。
年を取ってからは都会のマンションに引っ越し、悠々自適なひとり暮らしを謳歌し、週に2〜3回は決まって現れた。
杖をついて、ゆっくり歩いて、カウンターのいつもの席へ。
「いつもの」で通じるほど、食べるメニューもほぼ決まっていた。
味は薄め、量は少なめ。マスターが絶妙な調整をして出していた。
食べる姿は、ほんとうに丁寧だった。
時間をかけて、一口ずつ、噛んで、飲み込んで、休んではママやバイトの私たちに冗談を言う。
最後は必ず「ごちそうさん」という言葉で帰っていった。
あるとき、いつもの時間になっても、おじいちゃんは来なかった。
1週間経っても、1ヶ月経っても。
「亡くなったんだよ」と、マスターがぽつりと教えてくれた。
ご家族がわざわざ挨拶に来たそうだ。
「うちの父、ここでしかちゃんと食べてなかったんです。本当にありがとうございました」と仰ったそうだ。
その言葉を聞いたとき、胸がきゅっとなった。
誰かにとって"ちゃんと食べられる場所"であること。
それは、命をつなぐ場所であるということだったんだと、私は知った。
食べることは、生きること。
カロリーとか栄養だけじゃない。
誰かに見守られながら、温かいものを口に入れるという行為そのものが、「今日も私はここにいる」と、確かめることだったんだと思う。
私がバイトしていたあの店は、私の卒業と同時に閉店してしまって、あの場所は別のお店になっている。
でも、あの店で交わされた「食べる」という行為のすべてが、あの時間に居合わせた人たちの"生きた証"になっていた。
それを私は、確かに見ていた。
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