就活を目前に控えた春、私はふと立ち止まっていた。「希望勤務地」の文字を見るたびに頭に浮かぶのはある街の風景。でも、それを素直に選ぶには少しだけためらいがある。

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思春期の私は、将来どこで暮らすかは自由、選ぶのは自分。そう信じて疑わなかった。でも今、その「自由」という言葉は、だんだん違う顔を見せてきている。

私はこれまで、東京、札幌、香港、アメリカと、いくつもの地域で暮らしてきた。その中で、いちばん忘れられないのが、幼い頃に住んでいた街、札幌だ。窓の外に雪が降る音、校庭にできた白い足跡、鼻の奥がつんとする冬の朝。日常のすべてが、どこか物語の中にいるようだった。

大学生になってからも、札幌とは不思議な縁が続いた。当時の恋人が札幌に住んでいたことから、長期休みのたびにその街で借り暮らしのような日々を送った。スーパーで食材を買い、湯気の立つ台所に立って恋人の帰りを待つ。あのとき感じた“暮らしている”という実感は、東京の忙しない日々の中ではなかなか得られないものだった。

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今の私は東京で、就活や授業、バイトに追われる毎日を送っている。人波に流される駅のホーム。イヤホンの中の音楽だけが、自分のリズムを保ってくれている気がする。そんなときふと、札幌の雪道をひとり歩いた夜を思い出す。静かで、寒くて、でも安心できた時間。私が自由に選んだ、大好きな地での時間。

もちろん希望勤務地は札幌。だけど、ただ「住みたい」と願えば叶うほど、大人の選択はシンプルではない。私はひとりっ子だから、両親の老後のことも気になっている。大手企業は大体東京にあるし、周囲の友人たちもほとんどが東京に残る予定だ。

自由が、実はとても難しいことなのだと知り始めている。どこで暮らすかを考えることは、誰と生きるか、どんな仕事をするか、どんな責任を引き受けるか――そうした選択と分かちがたくつながっている。一人暮らしが長くなって、私自身と、私の将来に向き合う時間が増えたことで、そんなことに気がついた。

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高校時代、私は理系科目が好きだった。特に生物に強く惹かれていて、医療や研究の道も心にあった。でも進路を決めるとき、周囲からは「文系の方が選択肢が広い」「安定しやすい」といった声が多く、自分の中でも迷いがあった。最終的には自分で納得して文系を選んだつもりだったけれど、今振り返ると、誰かの価値観に背中を押されるように選んだ部分もあったと思う。

同じようなことは、他にもあった。たとえば大学での留学。私は違う国に興味があったけれど、条件や費用の問題で選べる場所は限られていた。「自分で選んだ」と何度も自分に言い聞かせていた。でも、そうじゃなかったのかもしれない。

「自由に見える選択」が、実は誰かの期待や、制度や、経済的な制限の中でしか成り立っていなかったことを、そしてそれは仕方のないことだということを、大人になっていくにつれて理解した。

自由って、すべてを思い通りにできることなんだろうか。誰かと生きるってことは、自由が狭まることなんだろうか。これまで私は、誰かの価値観に影響されて数々の選択をしてきた。そんな私にとって自由は、何もかもを好きに決められることではなくて、「迷いながらも、自分の意志で選び取っていく力」なのかもしれない。

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「この先、どこで生きていく?」

その問いに、今すぐ完璧な答えは出せない。でもいつか、ここにいてよかったと思える場所を自分の力で見つけられるように。その日まで、私は迷いながらも、自分の意志で選び続けていきたい。