大好きだった小説の映画化なのに、心は躍らない。変わるという現実

あんなに好きだったことに情熱を燃やせなくなったのはいつからだろう。怒られるまで飽きずにやっていたゲームも、発売日が楽しみだったマンガも、振り返ったら見向きもしないまま、ずいぶんと長い月日が過ぎている。
大好きだった時は、何よりも楽しみで一番だったのに、勉強や習い事、部活、お仕事など、そういうことに追われているうちに大人になった私には、それらのものはもう不要なものになっていた。そして、それはちょっとだけ寂しいけどもうそういう楽しみに使える時間はそれほどないのが現実だ。
飽きずにやっていたたくさんのことが少しずつ手を離れていく。学生だった時のように明確な卒業はないけど、そうやって私はいろんなことから卒業してきたはずだ。そして、これからのそういう経験を積み上げていくのだろう。
小さい時に新刊が楽しみだった小説を題材に映画化されるらしい。そんな情報を送ってくれたのは、よく小説やマンガの貸し借りをしていた友達だった。その友達とは、たくさんの貸し借りをしたし、その分会話することも多かった。放課後に下校時間も気づかないまま暗くなるまで、感想とか好きなシーンとかとにかく他愛のない翌日には忘れてしまうようなたくさんの話をした。
でも、違う高校に進み、お互いに関係のない学部へ進学した私たちをつなぐものはもうほとんど残っていない。そんな中でその友達から伝えられた映画化の情報は確かにうれしいものだった。そのやり取りをきっかけにして毎日話したいろんなことを思い出したし、懐かしいと心が温かくなった。
でも、それらの感情はすべて過去のものであって、今の感情ではなかった。以前はあれほど好きだったのに、その純粋に好きだった気持ちが分かるからこそ、あの時の気持ちとの違いにも気づいてしまった。以前の私だったら、きっと映画を見に行くのはもちろんだし、映画を見る前に前の小説を読んだり、友達と話をしたり。映画化の情報から映画が公開されるまでにやりたいことがたくさん思い浮かんだだろう。そして、その友達も誘って映画館にいき、やっぱり飽きるまで映画の感想を話したと思う。
でも、そういうワクワクするような気持ちは薄くて、映画化の情報としてただ受け取り、そのままどこかへ置いて忘れてしまうようなものに変化していた。
私にこの情報をくれた友達は、一緒に映画を見に行く事を期待して私に教えてくれたのだろうか。懐かしいとは感じたが、映画化の情報から会話が進むことはなかった。それが私が乗り気でないことが伝わったからなのか、友達もそれほど興味がなかったのかはわからない。
映画化の情報が私に教えてくれたのは、もうそれほど興味がないのだという悲しい気づきだった。すごく好きだったはずなのにもう戻れない。この思いは慣れ親しんだ場所から離れざるをえない卒業の時に感じるものとよく似ていると思う。卒業のように式典をしてもう明日からは来なくていいですという風にならないけれど、不思議とあの場所には帰れないということだけは分かる。それは私が成長したのかもしれないし、新しい場所を見つけたからかもしれない。こんな風にちょっとだけ寂しいお別れを繰り返して、私たちは成長していくのだろう。
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