わたしたちは、常に誰かの尺度にさらされている。
あなたに好かれたい。認められたい。
他者のものさしに合わせて背伸びしたり、とりつくろったり、自分を仕立てることに、いそがしい。
他者の尺度の呪縛から、逃れたい。と思いながら、自分のものさしを信じ抜く強さもない。
宙ぶらりんだった。ずっと。
けれど、暮らす場所を変えたら、他者の尺度から少しだけ、自由になれた。

渋谷のスクランブル交差点3往復分 小さな人口規模のこの町で

わたしは北海道の、とある小さな過疎地域に住んでいる。暮らし始めて4年目だ。
2020年4月から東京と北海道の二拠点生活をする予定だったが、新型コロナウイルスの感染拡大の影響を受けて、東京での仕事がぽっかり、なくなってしまった。
東京へ行く理由がなくなり、移動がリスクになるご時世において、食うに困らないしこの町にとどまるのが最善の選択だと思い、二拠点計画は白紙に戻した。
けれど、とどまった理由は、それだけではない。
25歳で、東京から北海道へ移住すると言ったとき「なぜそんな田舎に?」と不思議がられた。都会から離れれば離れるほど、不自由さを感じる人もいるだろう。都会の大衆は、何者でもない心地よさと、何者かになれるかもしれない高揚感を与えてくれる。
一方、生活圏が過疎化すれば、個人の存在感が浮き彫りになって、“何者でもないわたし”で、ありつづけるのはむずかしい。
〇〇屋の~さん、◯◯さんのお父さん、お母さん、近所の◯◯さん……という具合に(街の人口規模というより、暮らしているコミュニティの人数規模によるものとも言えるかもしれないが、今回は割愛)。
わたしが住む北海道のとある町には3,000人くらいの人々が暮らす。渋谷のスクランブル交差点を3往復くらいしたら、全人口が網羅できるほど小さい。

何も押しつけず尊重してくれる北海道の小さな町  

さぞ村意識にさらされて、暮らしにくいだろうと想像する人もいるだろう。ところが、この町の人々は、わたしが何者であろうと放っておいてくれる。
自分の尺度に押し込めて認識しようとしない。なぜと聞かれても「そういう風土だから」としか、答えられないのだけれど。
たとえば、単身で移住してから今まで、誰もわたしに「結婚しなよ」だとか「この町で子どもを産んでずっと住み続けてね」だとか言いくるめて世話を焼いたりしない。
わたしが一人でいようと、誰と暮らそうと、きっと彼ら彼女らは気にしないし、尊重してくれる。
東京で暮らしていたときのほうが、何者でもないくせに、何者かでなければならない気がして、特別な力がない自分を呪った。特別な力がないと思いたくなかった。誰かに「特別であれ」と強制されたわけでもないのに。勝手に特別でなければならないと思い込んでいた。特別な力はないことを、受け入れることができなかった。
けれど、特別な力がない自分に、何も強制してこない人たちに囲まれると、ふしぎと、力が湧いてくる。

都会の焦燥感と劣等感に酔っ払っていた

自分は自分に、何を期待していたんだろう。そもそも特別な力って、なんだ。
焦燥感と劣等感に酔っ払っていた自意識が、森や、広い空を見上げていると、ふと醒める。
冷静になって、周囲を見渡すと、決して便利ではない地域で、粛々と生きる人々。人間の都合にかまわない、どうぶつや植物のうつろい。
彼らに「あなたは自由に生きなさい、わたしも自由に生きるから」と、めくばせしてもらっている気分に、なる。
わたしがコロナ禍で、この町を拠点にし続けている理由は、この風土があるからだ。
「あなたは自由に生きなさい」という姿勢は、「自分の尺度は自分で決めなさい」と言われているのと同じだと思う。
他者の尺度に自分を順応させて、媚びたり好かれたりすることより、ずっと、困難だ。自分に期待せず、「あきらめる」。正直、きつい。特別な力がないと受け入れるということだから。けれど、自分で自分の手綱をにぎる手触りは、どこへでもいける、何者にもなれる力をくれる。

東京も大好きだけど 人の数だけある物差しから一度離れる

東京も、大好きだ。すてきなものがたくさんあって、多くはないけれど大切な、友人たちが暮らす街。けれど、都会に暮らしていると、人の数だけある、さまざまなものさしに、自分が常にさらされ続けているような気がしてしまう。
都会でも手綱を握れる人は、いる。うらやましくないわけではない。向き不向きが、あるだけだ。音楽が得意な人、スポーツ万能な人、絵が上手な人……それと、きっと一緒だ。わたしはたまたま、この森に囲まれた、少数の人々が暮らす規模が、合っていただけ。
わたしたちは、常に誰かの尺度にさらされている。
もし誰かの尺度で以て強引に、はかられそうになるならば。
もしくは自分で自分を、周囲の尺度でしか、はかることができないならば。
一度、その場を離れる。自分で自分を手放して、あきらめる。「あきらめる」には「明らかにする」という意味があるのだから。
他者と自意識の尺度で凝り固められた怒りと酔いの醒める場所が、自分をあきらめさせてくれる。