恋愛感情は推し活と同じ? 中学生の私にはわからなかった答え

中学生だった私は、恋愛の好きと推しへの好きの区別がついていなかった。恋愛よりも推しが先にできて、好きな人は推しだった。それが故に、恋愛というものがよくわからず、推しと同じような気持ちになることを恋愛だと認識するようになっていた。
中学で気になる人ができたのだが、相手は小学生の頃から知っている人だった。どこがかっこいいというわけでもなく、相手も私と同じ人を推していたことで親近感を持ったのである。
もっと共通の話題で話したいと思ったのがきっかけであるが、意識をすると話しかけるタイミングを失った。女子に好かれやすかったキャラクターでもあったので、周りには必ず女子がいたことも近寄りがたかった理由だ。周りの女子たちは私とは真逆なほど社交的な子が多かったので、苦手意識もあったくらいだ。
ワイワイと話す光景を視界に入れながら、随分楽しそうだな、と片手間で思うくらいの関心で、それほど気に留めてはいなかった。
相手を気になり始めたきっかけは、他の人が相手のことを好きだと言ったときである。なぜかその人には取られたくないと思った。相手がその人に振り向くはずはないと妙な自信があったものの、嫌悪感に近い感情が芽生えた。
私も気持ちを伝える気はなく、思い過ごそうとしたのだが、なかなか見過ごせず、モヤモヤとした違和感を抱えていた。これはどんな気持ちなのだろうか、と探ってみると、推しに対する同担拒否の感覚に近いのではないかと気づいた。他の人が自分よりも熱量高く推し活をするのが認められない感覚だ。
恋愛は推し活ではないと頭ではわかっていたものの、感覚は完全に乖離できていなかった。気持ちとしては似たような思いであり、自分の中に湧き出る気持ちも似ていた。
だからといって付き合いたいわけではなかった。ずっと一緒にいたいとか、デートがしたいとか、そんな気持ちは一切なかった。ただ話したい。推しについて、共通の話題で盛り上がりたい、そんな気持ちが大きかった。
これは私が推しに対して求めている理想の距離と似ていた。私が思う、推しとの最も理想的な距離は、対等に話しができることである。ミーハーで黄色い歓声をあげ続けるだけでなく、思ったことを伝え、会話をする距離だ。
ちゃんと人として認知されたいという思いの現れなのだろうか。推しと友だちになりたい。というのが私にとっての最終地点である。中学生の私は、そんな気持ちに似た感情を身近な存在に投影したのかもしれない。
気持ちを文字にまとめると、恋をしていた可能性がかなり上がっている。けれど当時は、恋をしたという気持ちがわからず、認めたくもなかった。100%叶わない思いであることもわかっていた。後に気持ちの整理が完全に着く瞬間があり、引きずることなく過ごしているが、封じ込めてしまった記憶なので、あのときの正解はわからないままだ。
本当に私が好きだったのかは定かではないが、もし付き合う展開になっていたらどうなっていたのだろうか。人生2周目があるならそれを試してみても楽しそうだ。
今は連絡を取るわけでもなく、SNSは知っているものの、アクションは起こさない。昔から知っている人、というだけで、それ以上の感情は一切ない。
中学生の時、私が好きかもしれないと思った人。推し活と恋愛の区別がつかず、推しと似たような思いを抱いた。あれが恋愛の始まりであるのなら、私にとっては恋愛も推し活も同じ範囲にあるのだろうか。今でも少しその可能性を否定できないと思っている節はある。そろそろ認める時期にきているのかもしれない。
感情のあれこれを知らなかった中学生の私にとって、好きな人と認めるだけでもかなりこじれて険しい道を通ってきたように思う。だからといって、今スイスイと流れるように好きな人と認識できるかは別問題だ。ちゃんと過去にできているだけ良いのだろう。
私が好きだった人は、推しとの距離に似た位置で感情が動いていた。好きと呼べるかはあいまいかもしれないが、ちゃんと心は動いていた。
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