私はかつて、好きになってはいけない人を「好きだ」と思うことに、心からの恐れを抱いていた。

愛情や恋愛感情が、自分の思考や行動を縛り、時には自己を見失わせることを恐れたからだ。

恋に落ちることの中にあるコントロールできなくなる感情の乱れは大変なもの。

期待と現実のギャップ、そして何よりその先にうまくいかない未来、失恋の痛みがあらかじめ決まっているなんてわかっていたから、どうしても心の中で一歩引いてしまう自分がいた。

そんな私が、恐れがなくなっていることに気づいたのは、「推し」という存在ができてから。

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推し――言うまでもなく、私の心を引きつけ、日々の生活に小さな幸せを与えてくれる人物。

それは、アイドルであったり、俳優であったり、アニメや漫画のキャラクターであったりする。推し活という言葉が流行ってから、自然と使うようになった。

彼らに対する感情は、恋愛とは明らかに違う。

愛することに関する恐れもないし、何より、私自身が彼らと一線を越えることは絶対にないと知っているからだ。

でも、その感情は強い。「抱かれたいくらいすごく好き」だと言うと、その熱さに驚かれるかもしれない。彼らの笑顔や演技を見て、胸が高鳴り、心が温かくなる。そして、そうした感情を、全身で受け入れる自分がいる。

でも、同時に、私は知っている。

彼らとの関係には、決して越えてはならない一線があることを。

それが、「推し」という立場であればこそ、私は好きでい続けることができるのだ。

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恋愛のように感情に支配されることなく、ただ純粋に、その存在が自分に与えてくれるものに感謝し、心の中で一人で大切に思うことができる。それは、私にとって「好き」とは少し違う、特別な感情だと思う。

から、私は恋愛感情とはまた別の形で「推し」に心を奪われている。

自分の中で、彼らとの境界線をしっかりと引くことで、その感情を健康的に保つことができる。「好き」ではなく「推し」を選んだのは、その一線を越えてしまうことで生じる不安や痛みを避けるためだった。

彼らの存在が、あくまで私の中で尊敬や憧れの対象であり、現実の枠を越えて交わることがないからこそ、私は安心してその感情を楽しむことができる。

推しは、「好き」になれないけれど、「堂々と好きでいられる最強の手段」だと言ってもいいだろう。

彼らを応援することで、私は自己肯定感を得るし、その姿に勇気をもらう。彼らの活躍を見守ることが、私自身の生活を豊かにする。その感情は、どんなに強くても、決して私を苦しめることがない。むしろ、彼らの存在が私を支え、前向きな気持ちを呼び覚ます。

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もちろん、推しとの関係は一方通行だ。彼らは私を知ることはあんまりないし、私がどんなに応援しても、その熱量が届くことはあまりない。

でも、それでも私は心の中で彼らを応援し、何かしらの形でその活動に影響を与えられるように感じている。それは、私の力の及ばぬところで、彼らの世界に少しでも貢献できると信じているからだ。

そして、推しという存在は、私にとってとても大切な「距離感」を教えてくれる。恋愛感情であれば、距離が近づくほどに、相手のことを深く理解しようとしたり、期待を抱いたり、時には束縛を感じたりすることもある。

しかし、「推し」との関係では、その距離がむしろ心地よい。私は彼らを理想化し、無理のない範囲で応援することができる。その姿勢が、私をいつまでも純粋で穏やかな気持ちにさせてくれる。

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ある意味、推しとの関係は、私の内面を穏やかに保つための「大切なバランス感覚」でもあるのだろう。

恋愛や人間関係において、時には感情が暴走することがあるけれど、「推し」に対する感情は、その暴走を防ぎ、私を冷静に保ってくれる。

そこに求めるものは、ただひたすらに「応援」と「共感」の気持ちだけだ。

推しとは、私にとって、単なるアイドルや俳優ではなく、自分の感情を整理し、より豊かな人生を歩むための「心の支え」であり、私が自分を見失うことなく進んでいくための道しるべでもあるんだと思う。