大きくなるにつれて、自分と他者の間にうまく線を引けなくなった

あれはたぶん、小学3年生の頃だったと思う。祖母に買ってもらったピンクのTシャツが嬉しくて嬉しくて、そればかり着ていた夏があった。
今でも覚えているそれは、好きなキャラクターがプリントされた可愛らしいTシャツ。幼かった私はピンクが好きで、特にパステルカラーのように淡く優しい風合いのピンクが好きだった。そのTシャツも例に漏れず淡いピンクをしていて、それを着て学校に行く日は少しだけ気分が高揚したのを記憶している。

だけど、だんだん大きくなるにつれて自分と他者の間にうまく線を引けなくなった私は、ピンクを上手に愛せなくなった。

自信も失った。身につけるものから、ピンクは姿を消していた

中学生になる頃には、ピンクは「誰からも愛される性質もしくは見た目をもった特別な女の子のための色」という認識があった。私をその基準に照らし合わせて測ったら、「私は違う、当てはまらない」という判定が出た。

だってクラスの可愛い女の子たちは、目がぱっちりしていて、朗らかな笑顔が眩しくて、たくさんの友達がいる。
対する私は、目は一重で、笑顔をつくるのも友達をつくるのも苦手。休み時間は自分の席で読書をしながら、時間が過ぎるのをじっと待っていた。
早く授業が始まって、同じ制服やジャージで皆が席について、一人ひとりの違いが見えづらくなればいい。私の価値を見失っていった私は、いつしかピンクを身につける自信も失った。
だって私は、可愛い女の子なんかじゃないから。
気づけば、身につけるものから、ピンクは姿を消していた。

ところで、現在の私には「推し」がいる。その推しが作る映像作品にはピンクが登場することが多く、きらめくピンクの世界を見ると心が弾むのを感じる。
やっぱりピンクは可愛いのだ。推しの作品を見ていると、中学生の頃にひねくれてしまった自我を幼い頃に巻き戻して、素直にそう思うことができる。
大人になった私にとって、ピンクは自分自身を飾る色ではなくて鑑賞用の色になったらしい。私の外に飾られているピンクになら、素直に「可愛い」を認めることができる気がする。

中学生の私だって、もっと自分の気持ちを大切にしてもよかった

人生の目標の一つに、「自分と他者の切り離しが上手になること」がある。
私はたびたび、自分と他者の感情や都合を上手に切り離して考えることができずに苦しむことがあって、それは割と日常茶飯事だ。職場でも家族の中でもはたまた友達といても、私は「これを言ったら相手に迷惑じゃないだろうか」という点を考えすぎている。

必要なことかもしれないけれど、そのしすぎも良くなくて、そうすることを積み重ねてきた結果、私は私の感情に疎いところがある。私の感情を一番に大事にできていない。感情を置いてけぼりにしている。
他者の価値観を自分に落とし込みすぎる必要なんてないのに、もっと私を大事にしていいはずなのに。

だから、ピンクを着られなくなった中学生の私だって、もっと自分の気持ちを大切にしてもよかったのだ。大丈夫、あなたの感情は誰にも侵されない。あなただけのものとして誇ってよかったのだと。あんな形で、ピンクとお別れをしなくたってよかったのだ。

年齢を重ねるにつれて、いろいろなことに気がついて、自分と他者の境界を見極める重要性に気づかされる。ピンクを鑑賞用としてなら愛せると気づいた今の私のように、いつか自分自身の存在まるごと愛せるようになりたい。
そうしたら、ピンクと悲しいお別れをしてしまった中学生の私を抱きしめに行ける気がするから。