頑張れば報われる。

この言葉が私を走り続けさせている。

中学生時代、私は人間関係で躓いた。
教室に喋れる人はおらず、グループ決めでは常にあまりもの。きっかけは覚えていない。私が思いも至らない程、些細な理由だったのだろう。
当時の私はこの答えのない問いに悩み、父に答えを求めた。
すると、父は「頑張らない人間は応援されない。頑張る人間は応援される」と私の目を見て答えた。
私はそれを、私が何かを頑張っていないから、「みんな」は私を仲間として認められないのだと解釈した。

この言葉は私を操り人形につく糸のように動かし、縄のように縛り付けた。

笑わず、感情を殺し、完璧に。あれ?言葉で心を通わせるのって?

「努力」「努力」「努力」

喋る相手もおらず、むしろ笑った顔を見せれば気色悪いと言われた私は表情を消した。そしていつの日か学校という名の狭い囲いの中で認めてもらえることを夢見ながら、人が望むことを完璧に実行するように努めた。

そうしたら、人と言葉で関係を築く方法を忘れてしまったのだ。

しかし、これは誰かに聞けば解が示されるものでもない。人と関係を築いていくことは、私自身にしかできないことだ。
誰にも聞けずに、私はひたすら行動でもってコミュニケーションをとることとなった。

だからこそ、自分が頑張った分だけ評価されないと気が済まず、恋愛においても相手に心を見せることなく、ただ目の前で私という存在に気付かざるを得ないほどの功績を上げることによって振り向かそうとした。

評価を求めるあまり、本当の意味での友人になれなかった

そうすると、友情においては範囲が狭まり、恋愛においては相手に「認められたい」と依存する形でしか関係を築けなくなる。
事実、大学時代のほとんどを私は「仲良くなりたい人」とではなく、「競い合い、勝ちたい相手」と共に過ごした。
「負けられない」「どうやったら勝てる」しか考えていなかった。
今思えば相手は、単純に私と仲良くしようとしてくれていたように感じるが、気づかなかった私は相手を思いやることよりも、相手に自分を認めさせることに時間を割いた。
結果、私には遊びに行く友人も、私用で連絡を取り合う人もいなかった。

そして、昨年6月、大学卒業まで約半年間になったころ。
就活が終わって周りを見渡せば、4年間という時の流れを感じさせる濃い関係性を持った集団が楽しそうにしていた。
彼ら、彼女らはもちろん私にも感じよく接してくれる。しかし、親密度の差を目の前で見せつけられると、当然のことだと分かっていながら傷ついた。
何が足りなかったのか。あとどれだけ努力すれば認められるのかと、苦しくなった時もある。

姉の助言が腹に落ちた 言葉を恐れない、認めさせる相手は自分

ある日、このことを私の姉に話した。
すると姉は「コミュニケーション手段が行動だけだった今までを、言葉でも人との距離を詰められるように変えてみれば?」と答えてくれた。

すんなりと納得できた。
努力が足りないわけじゃない。努力は十分だが、根本に改善点があるのだと。

新社会人になる2021年。
人に頼らず、自分のことを認められるようになる。
人と言葉で距離を詰めることを恐れない。
これが私の宣言だ。