帰省を終えるたびに、胸の痛みやセンチメンタルが増しているような気がする。ゴールデンウィークの最終日、羽田に向かう帰りの飛行機の中で、そんなことを考えた。大学院を出て、社会人2年目。今年で26歳になる。

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高校卒業までの18年間を、私は大分で過ごした。大学進学と同時に憧れの東京に向かい、寮で暮らしたりコロナの影響で地元に帰ったりなど転々としながら、現在は中央線沿いで一人暮らしをしている。

大都会の暮らしは、実に便利で刺激的だ。20時過ぎにはすべての店が閉まってしまう地元とは違って、24時間空いているコンビニも、夜遅くまで営業しているチェーン店もあって、街はいつまでも煌々と明かりを灯している。ネットでしか見ることができなかったブランドの実店舗に足を運ぶことも、有名画家の展示会に行くことだって簡単にできる。

就職先は地元の親でも知っているような企業で、入社したての頃は、綺麗なオフィスが嬉しかった。

けれどふと、地下鉄の窓に映る残業後の疲れきった自分と目が合ったとき、この生活が本当に求めていたものだろうか、と考える。私はたしかに東京に憧れていた。けれどその気持ちは、成長や新しい経験を求める無垢さであって、決して表面的に何かを満たしたり、身につけたりすることではないのだと思う。

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今回の帰省で、気づいたことはいくつかあった。ひとつ、自然に溢れていること。どこにいたって山が見えるし、少し車を走らせれば、いくつも温泉の湯煙が立ち昇っている。住んでいた頃はどれもすごく当たり前の景色だったはずなのに、そのひとつひとつに感動していた。

ふたつ、祖父母や両親が確実に歳を重ねて変化していること。けれどそれは悲しむことではない。洗い物を終えて、歪になった手の関節を見ながら「生きてきた勲章よ」と微笑んだ祖母を、私はとても美しく思った。

何もないと思っていた地元には、豊かな自然や、そこで生活を刻んできた人たちの温かみがある。何よりその豊かさを知っているのは、私が愛されてきた証である。もちろん東京やその周辺にだって似たものはあるだろうけれど、私は自分を育ててくれた家族と、私だけの思い出と記憶が詰まった場所を何よりも大切に思う。

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タイムリミットは、思っているより遥かに少ないかもしれない。生きている場所というのは、「いま・ここ」の自分を残酷なまでに照らし、本当に欲しいものをあらためて見つめさせてくれる。

手のひらの液晶パネルひとつで何もかも完結できるこの時代だからこそ、「生きていく場所」には、デジタルでは反映しきれない五感を大切にしたいと思う。そこには承認欲求や物欲なんて関係なくて、ごはんが美味しいとか、商店街のおじさんが優しいとか、見上げた空が綺麗だとかみたいな、消費してもしきれない、もっと素直な感情を求めていきたい。

今回の帰省を、ただの感傷では終わらせたくないと思う。今の仕事はまだ安定しているし、現実的に、すぐに大分で生きていくという道を選ぶことは困難だろう。けれど私はこれから、大切な故郷に対して、私にできる愛の還元をしていきたい。