特別な存在だった上司。彼のように笑って、空を見て歩いていこう

雨が降った。嗚咽もかき消すほどの大粒の雨。少しだけ、苦しさが和らいだのは、あなたがわざと降らせた雨だったからかもしれない。
4月。それは桜が散るように、静かな別れだった。
「会社辞めるんですか?」
「また話すね」
それが彼との最後のLINEだった。彼は、毎日笑顔で笑うと白い歯が輝いて、そのエネルギーはいったいどこからくるのだろうと不思議だったし、尊敬していた。
弱みを誰にも話さない、見せない彼を、知って行こうとすればするほど、重くて辛い過去が見えた。幼少期に母親が他の男性と遠くへ行ってしまったこと。父親は授業参観にも卒業式にもこないこと。それは愛を与えられずに愛を知らずに育ってきたのだと感じた。そんな彼は変わり者で、社内では嫌われ者だった。
とある出先の帰り道、彼が商店街を適当に歩きながら独り言のように呟いた。
「僕は友達を作ると、過剰に愛を求めて相手を傷つけてしまうから友達は作らないって決めてるんです」
せめて私くらいは、友達で、理解者でいさせてください、と心の中で誓った日でもあった。
また別の日、営業で同行する車内で、彼は自分が今までしてきたとんでもないドン引きするような話を自ら披露してきた。
「おかしい。普通ドン引きしてきもいってなるでしょ」
「え?なりませんよ。だって、それがあなたなんでしょう?」
わたしだけは、この人をこの人の人生ごと愛そうと思った。
友人に彼のことを話すと勘違いされることがあるが、彼のことを恋愛感情で好きなのではない。純粋な、愛情に近い。家族になってほしいと思った。父の代わり、いや、お兄ちゃんでもいい。
全く同じ幼少期を経験しているからこそ、きっと彼となら、誰にも理解できない感性を、痛みを分かち合えるのではないかと思った。
しかし、ある日を境に、彼は突然私の目をみなくなり、会話を一切してこなくなった。会話をしてくれないことが、既に別れの準備をしている最中だなんて気づきもしなかった。いや、気づかないふりをしていないと保てなかったのだとも今なら思う。
今振り返ると、友人の前で彼の名前を出すと勝手に涙が出てきたり、落ち着きがなくて家に帰ると狂ったように嗚咽してご飯が食べれなくなってかなり体重も落ちた。彼が安心して会社を辞められるように、彼に教わった仕事を死に物狂いでこなしていて、食べるのも飲むのも忘れて気づいたら脱水症状が起きていたりもした。
彼が出勤最終日、偶然同行した帰り道。
「車まで送ってくれますか?」
彼の最後の甘えだ。嬉しかった。彼を自家用車の前まで送った。1分もなく着いてしまう。何を話そう。
「ねえ、次の職場決まってるんですか?」
「ううん、決まってない」
「…」
お互いに、離れたくないという間が少しだけ流れて、彼が私の手を強く握った。
「…じゃあな!」
また白い歯を見せて笑う。声が震えている。今にも泣き出しそうな笑顔だった。
「…うん、じゃあね!ありがとうございました」
それに合わせて笑顔を作ると、あなたが震えて目を逸らし涙を堪えているようにも見えて、こちらも涙が浮かぶ。彼は振り切るように手を離すと、早足で車の方へ向かっていった。もう2度と会えない、最後の別れのような感覚に近かった。
あなたが私の前から消えた日、心に穴が空いたような何も無くなったような、母が亡くなった時と同じような感覚に襲われて、家の中をずっと歩き回っていた。探し物なんてないのに、ずっと何かを探して、落ち着かなくてやるせなかった。
幸い次の日、休みだった。予定を全部取り消して、彼と向き合う日にした。朝から晩までずっと泣いて、瞼が内出血した。スマホで顔認証ができなくて笑った。あなたなら一緒に笑ってくれるだろうとよぎってまた涙が止まらなくなった。こういうのを100回くらい繰り返して泣いて、泣いて、そしたら雨が降った。「まだこの場所で生きていたかった」とあなたが泣いている気がして苦しさは増す一方だった。
彼は私との約束を守ってくれたことは一度もない。それを彼も自覚しているから、約束も約束にはならないようにしている。「また行こうね」は行かないし、「また話すね」も話さないのだ。
私が笑うと、みんな苦しそうに黙ること。「柚希さんは、何かあったらうちにいってくださいね」とあえて電話で伝えてくる後輩。頭が割れそうなくらい泣いても、何故か思考回路は冷静だった。
別れを悲しむにはまだ早すぎる。まだ忘れるのなんて早すぎる。まだ笑っていよう、彼のように空を見て歩こう。
正座して、線香を焚いた。あなたがここで生きられなかった残りの分、わたしが幸福に変えるから見ていてほしい。
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