昨年の2月、祖母が亡くなった。

夏休みになると祖母の家に遊びに行き、豊かでゆったりとした時間を過ごすのが大好きだった(「夏が好き。あの夏の、今はもう誰もいない祖父母の家の記憶があるから」)。

祖母は施設で暮らしていたが、度重なる怪我や手術の影響で晩年は自力では歩けずにいた。施設から病院に移り闘病していたが、ずっと自宅に帰りたいという気持ちがあった。認知症を発症していて、たびたび息子である私の叔父に「明日帰りたいから迎えに来て」と連絡していたそうだ。叔父や母の尽力と医師やケアマネージャーの協力のもとで、祖母は亡くなる1週間前に自宅に帰ることができた。

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祖母が帰ってきたことで自宅介護が必要となり、母はひとりで祖母と向き合うことに不安があった。私は母に「仕事を休んでくれないか」と言われた。姉や妹は世帯もあるし、介護休暇の制度を使えそうなのは私だけだったが、知識もなければ自信もなかった。しかしなぜかできると思った。

私は介護休暇をとって母と祖母と一緒に過ごした。数日経つと祖母はだんだんと音にも光にも反応しなくなり、足だけが浮腫んでいった。日に日に起こることが、人生を閉じることに向かっていると、嫌でもわかった。

そして、私が仕事のため1日だけ不在にしていた日の朝、実の娘である母と叔父、義理の叔母に見守られ、息を引き取った。

祖母があまり反応しなくなってからは、私達が良かれと思っていることに対してどう思っているのかが気になった。
痛いところがあるのか。暑いのか、寒いのか。喉が渇いているのか。そばにいてほしいのか、ほしくないのか。そして、今の状況に対してどう思っているのか。

祖母は日に決まった量の点滴を打っていたが、これはある意味延命治療的なもので、祖母の体は点滴すら受け付けない体になりつつあった。本当は苦しかったんじゃないか、とも思った。

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私は夏休みに遊びにくるだけの、外孫のひとりだった。
もしかして、私に居てほしいなんて思っていないのかもしれないと、何度も思った。祖母と一番長い時間を過ごした従姉妹もいるし、実子である母や叔父と居たかったのかもしれないとも思う。最後は会話ができなかった分、いつまでも気になることだった。

後悔しているわけではないが、1年以上たった今でも、ふと思う。
あの時一緒にいたのが、私で良かったのか。私は、どこか自分ならできるという自信を持って祖母を看ることを引き受けたが、実際は力不足だったのではないか。

しかし、あの時引き受けていなければ、あの時間を祖母とは過ごせなかったし、母や親族にも負担がかかっていただろう。

私は良い孫になりたかった。しかし実際は何度も泣いたし、眠れなかったし、どこかで普段の生活に戻りたいと思っていた。今でももっと何かできたのではないかと思う。

私は受け入れることのできる強さがないことを知っていて、背伸びをしていた。そして、その結果考えるようになった祖母への思いとこれからも生きていかなければならなかった。あの時間がなければ、私は私が自分勝手に思い描いていた「良い孫」のままだったのかもしれない。