初夏の風がカーテンを揺らし、心地よく眠気を誘う昼下がり。木曜4限の美術の時間はそれぞれが自身の作品づくりに没頭し、または食後の午睡に入る。落ち着いた時間が流れていた。今回のテーマは静物画で、緑や青の空瓶、赤いシルクの布、偽物の洋梨に林檎、重厚な画集などのモチーフが美術室の各木机に配置されている。私達は厚い画用紙を持ち、芯がとんがった鉛筆でデッサンをしていく。

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食後、良い気温、静かな空間。あくびを噛み殺して息を大きく吸うと、絵の具と床に塗られたニス、ほんの少しの制汗剤の爽やかな匂いがした。そもそも、授業選択の時に美術の授業を取ったのは「もう一択の書道より持ち物が少ないから」というだけで、絵を描くのは苦手だ。なので、木机のお誕生日席で肘をついて、カーテンが揺れる様や他の生徒達が真剣にスケッチブックに向き合う姿、モチーフの本の古びれた質感、瓶のふちに自然光が滑る様をぼんやり見つめる。

ふと左前の生徒が目に止まった。彼はデッサンに没頭していて、止まることなく鉛筆を動かしては、指やねりけしで修正を加え、真剣な面持ち。だが不思議なことに、彼はほとんどモチーフを見ていない。彼の熱い視線が注がれる先ではどのような作品が出来上がっているのだろうか。少し気にはなるが、真面目にやっている彼を見習って私も描き進めなければとハッとした。

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絵とは思い通りにならないものだ。見たままを写し取ろうとしても上手くいかない。線の太さが悪いのか、瓶と洋梨の比率がおかしいのか、いやそれとも本の縦横が…。鉛筆を持つ手が痛くなって集中を切らした。顔を上げて左前を見ると、先程の彼は絵の具を準備し色を付ける段階に移っている。色を混ぜるにも、画用紙に色を重ねていくのにも迷いがない。絵を描くのに慣れているようだ。再び、彼の絵が気になった。疲労感とは裏腹に、じりじりと好奇心が蓄積されていく。じっと見つめていたら、彼に気づかれてしまった。「なに?」と率直に聞かれる。彼とは今まであまり関わりもなかったが、集中したあとの疲れもあって思ったままに口を開いていた。

「描くのはやいね、どこまでいった?」
「そうか?普通だと思うけど」

簡単なやり取りのあと見せてくれた絵に、目を見張った。何の知識もないが彼の絵は美しかった。違和感のない画面構成、布の柔らかさや果物のハリ感の違いが分かる。何よりも、色の表現にうっとりとした。緑の瓶底には、数色の緑や赤茶色、青が使われ、果物と隣り合う面にはその色が瓶に映るのを表現するため鈍い黄色や赤が忍ばされていた。その色彩のバランス感が瓶の透明感や立体感を表現し、作品全体の深みを出していた。あまりに美しく、リアルだったので、思わずその空瓶に入っていたであろうワインの香りを想像し林檎を齧りたくなった、ワインや果物のイメージがあるフランスが連想された。

感嘆のため息がこぼれる。それほど彼の作品に引き込まれた。教科書で見るどの絵画よりも、私の感性に刺さった。これほどの才能がなぜこんなところで転がっているのか。彼の顔を見ると無表情で、全く私が興奮していることに気づいていない。「これはすごい才能だよ」と伝えても、本気にしていない。「普通に描いただけ、才能なんてあるわけない」と困り顔だった。それでも私の興奮は冷めやらず、胸がドキドキする。まだ誰も知らない才能を見つけてしまった。この絵を手元に置きたい、じっと見つめていたい、という気持ちがジリジリと身を焦がす。完全に自身の作品づくりは手放し、彼が色を足して調整していくのをじっと見つめる。自分の目に熱が籠もるのを感じた。

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あれを一目惚れと言わずになんと言おうか。あの一瞬を何度も思い返し、常に見つめていたい、もし手に入ったらと思ってしまう。そして思い返すたびに、うっとり幸せな気持ちになるのだ。一人で完結できる強い情動だからこそ、永遠に美しい記憶として鮮明に残り続けるのが一目惚れなのだ。