「大事なものは、一度手放しても、戻ってくる。それを縁と呼ぶ」

わたしを変えたのは、ひとりの先生との出会いだった。
大学で出会ったその先生は、日本中世史を専門とする女性研究者だった。彼女が見つめていたのは、歴史の“主役”ではなく、社会の片隅にいた人たち。
「誰もあまり気にとめないような、ささやかな世界の構造をこつこつと明らかにしていくうちに、気づけば大きな世界も見えていた、なんていう形に憧れているんです」と語る彼女のまなざしに、わたしは強く惹かれていった。ささやかな世界。なんと美しい言葉だろう。
「賭博」など、ひとつの社会の片隅にあるような事象を通じて、「なぜ赦されるものと赦されないものがあるのか」「誰が決めるのか」「どういう価値観があったのか」といった問いに向き合おうとする彼女の視点に、わたしは深く心を動かされた。
その頃のわたしは、学問の世界にちょっぴり馴染めずにいた。でも、彼女の授業に出るようになってから、気がつけば「もっと知りたい」と夢中になっていた。
授業では、ときに涙を浮かべながら課題に向き合う彼女の姿があった。学問への真摯さ、社会への視線、そのすべてが美しく、わたしは次第に彼女の言葉に導かれるようになった。
わたしは次第に、先生として、研究者として、そしてひとりの人間としての彼女に強く惹かれていった。静かに、でも確かに「好き」という気持ちを抱くようになっていたと思う。
ある日、ふたりきりで食事をしたときのこと。
執着や焦りでがんじがらめになっていた20歳のわたしは、彼女に弱音をこぼした。
すると彼女は、こんなふうに言ってくれた。
「大事なものは、手放しても戻ってくるのよ。わたしも20代の頃は、不安と焦りでいっぱいだった。必死でしがみついていた。でもね、大事なものは、一度手放しても、戻ってくる。それを縁と呼ぶのかもしれないわね」
そのときのわたしは、その言葉をすぐには消化できなかった。でも、泣きたいほどに胸に残っていた。
その夜、わたしはこう書き残している。
「無常だなと思う。季節や自然も、権勢も、人の心も、人生も。永遠でないからこそ美しい。でもやっぱり、わたしは切ない。切なくて、切なくて、たまらない」
「なくしたくない」「変わってほしくない」。そんな気持ちばかりが心を支配していたわたしにとって、「手放してもいい」と言ってくれた彼女の言葉は、まるで光だった。
そのあと、彼女が教えてくれた本がある。江國香織さんの『神様のボート』。その一節に出会ったとき、わたしは涙が止まらなかった。
「一度出会ったら、人は人をうしなわない。たとえばあのひとと一緒にいることはできなくても、あのひとがここにいたらと想像することはできる。あのひとがいたら何と言うか、あのひとがいたらどうするか。それだけでわたしはずいぶんたすけられてきた」
まさに、わたしにとっての彼女の存在だった。
あれから数年が経ち、彼女は別の大学に赴任し、わたしたちは会わなくなった。でも、不思議と、寂しくはなかった。今なら、あのとき彼女が言っていた「手放しても戻ってくる」という言葉の意味が、少しわかる気がする。
一度出会えたなら、たとえ会えなくても、その人はずっと自分の中に生きている。それだけで、十分に救われる。彼女との出会いが、わたしにそう思わせてくれた。
「好きだった人」
そう呼ぶのは少し照れくさいけれど、たしかにわたしは、あの頃、彼女のようになりたくて、彼女のまなざしに憧れていた。そして今も、彼女の言葉が、静かにわたしの背中を押してくれている。
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