一人暮らし初日。スーツケースを転がして慣れない街を歩き、不動産屋で鍵を受け取って、部屋に入った瞬間、がらんどうの部屋で、私はしくしくと泣いた。

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誰もいない部屋からは、あまりにも眠すぎる5・6時間目の美術室に充満するニスのような、学期終わりに美化係の生徒がせっせと床にかけていたワックスのようなにおいがした。ただ、記憶の中のにおいと一緒に思い起こされた人の温度のようなものは、ここにはない。

ブレーカーに手が届かないから電気がつかない。Wi-Fiがないから母に電話もかけられない。カーテンがないから私の泣き顔は世間に公開されてしまっている。それでもしくしく泣いた。何が悲しいのかも分からないまま泣いていた。

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しばらくしてガス屋さんが来て、私は泣き顔で開栓を見届けた。サインをした後に「申し訳ないのですがブレーカーをつけてください」と頼んだ。私とそう背丈が変わらない男性だったが、手に持っていたバインダーで器用につけてくれた。家に明かりが灯ると、少しお腹がすいてきた。

アパートの下にあるコンビニに行ったら、フリーWi-Fiがあることに気が付いた。Wi-Fiをオンにしたままソロリソロリと家に帰ったら、電波が1つ・2つ生き残っていた。それだけでちょっとホッとして、コンビニご飯をむしゃむしゃ食べた。

夢だった一人暮らしは、想像以上に寂しかった。ご飯がおいしくない。お金がなくなる。シャワーの温度調整が上手にできない。気が付いたらコバエが寄ってくる。自分で何もかも決められる自由さは、自分で自分の人生に責任を持つということである。そんなこと、私にはできない。間違った決断をしてしまったかもしれないと、深く後悔した。

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あの日から、あっという間に5年の月日が経った。私の生活はいつの間にかこの街に馴染み、ワックスのにおいは消え去って、生活臭がぷんぷんと漂っている。蛍光灯は明るすぎて6本から3本に減らした。カーテンは丈も幅も絶妙に足りていないけどそのままにしている。自分で作ったご飯はうまい。お金はないけど、気ままで楽しい。

家の前は大通りで車の音はうるさいし、築年数は私と同い年で決して新築とは言えない。エレベーターはキーキー鳴るし、5年の間にエアコンもカギも壊れた。フリーWi-Fiの件でお世話になったコンビニには今でも通い詰めているため、きっと店員さんに顔を覚えられている。時刻表を見ずに電車に乗ったり、お気に入りのお店ができたりもして、今、私の生活はこの街にあるのだなぁと思う。

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遠い遠い夢のように感じていた一人暮らしは、いつの間にか人生の通過点になった。このまま暮らしていけば、いつか実家に住んでいた年数を追い越すだろう。いまだに、星が見える田んぼみちとか、網戸を開けた時に聞こえる虫の鳴き声とか、隣の家からする夕飯のにおいが、どうしようもなく恋しくなる日もある。5年経っても、まだちょっと寂しい。

それでも私は、自分で選んだこの部屋を、この街を、できる限り愛し続けたいと思っている。責任と引き換えに手に入れた自由は、私を一つ大人にしてくれたのだった。