私といえば、ショートヘア。でも、もう見た目に頼らなくても大丈夫

「なんでTsuchiyaってずっとショートヘアなの?」
この問いの答えが、ずっとわからないままでいた。
確固たる理由がある訳ではなく、髪が伸びたら切る。また2か月後、切る、切る…その繰り返しを15年くらい続けてきた。飽き性の代表格のわたしが、この年月同じ習慣を続けていたことに、いま書きながら驚いている。でもそれはきちんと言語化していないだけで、きっと無自覚にわたしなりの感覚が植えつけられている。そう思って、美の視点でこれまでを振り返ることにした。
小学生のころから身長が高かった。リボンよりもスニーカーが好きだった。皆が好きなピンク色は、どうしても好きになれなかった。
みんなと同じ「かわいい」に憧れ、今より美の多様性が浸透していなかった青春時代。いわゆる世間でいう「かわいくなるためのメソッド」には1mmも共感できなかった(似合わなかった)こともあり、自分ならではの美しさというものをずっと探していたのは、なんとなく覚えている。そうそう、「かわいい」って何?という問いは幼いながらも、常に昔から頭にあった気がする。
一般論のかわいいが似合わないこと。それは皆と同じ趣味趣向を求められる学生時代、そんなすぐには割り切れなかった。だからたまに憧れた。華奢で低身長で、ロングヘアが似合う女の子に。
親が仕事で留守にしている間、実家の洗面台でひそかに髪を束ねた。シュシュをつけた。でも鏡の向こうには、いつもに増して不格好なわたしがいた。やっぱりちがった。骨ばった高身長に、どうやってもレースは似合わなかった。そこらにいる女の子の「カワイイ」には、どう頑張ってもなれないことを鏡の前で痛感した。
ショートヘアでマニッシュな女として、この先もずっと生きていくしかないんだ。それは、ある種の客観性という名の自分に対する諦めだったのだと思う。
だから、ロングヘアの友達がよくわたしに言う「Tsuchiyaといえばショートヘアだよね!」という言葉については、さまざまな想いが巡る。わたしらしさを見いだせた結果ではあるけれども、過去の一般的な美にそぐわない容姿への葛藤を思い出すから。
土地柄のせいにするつもりは更々ないが、わたしが15歳まで育った地方都市は、個性の多様化という側面においては都心よりも強く抵抗感があったのだと思う。なぜなら、洋服はみんな同じショッピングモールで購入するし、個性を出そうと古着屋にいくも、古着屋の数が少ないため、みんな同じ“個性派さん”ができあがる。今と昔では、大きく違った価値観がそこにあったのは確かだ。
最近考えること。それは、個性とかセンスっていうのは、先天的なものではあるものの、それを見つけるには後天的な力が必要不可欠ではないか。大衆的な価値観と自分自身の価値観を比較して、秀でている自分の差分を試行錯誤しながら表現する。その結果、はじめて生まれるものではないかと思う。
さて、わたしがずっとショートヘアでいた訳。
さんざん似合わない問題を分析したものの、実はそれは表面的な理由。本当のところは、自分というキャラクターが周りに埋もれるのが怖かった。外見ではないパーソナルな部分で、他より秀でた部分があまりないのも自負している。だからこそ、せめて髪型だけはわたしのアイデンティティを確立させたかった。これが真意なんだと思う。皆と同じであることを否定的に綴っておきながら自信の内面が矛盾しているのは、どうかお許しください。
でもそろそろわたし、わたしに見飽きてきた。
ここ数年、年単位の自分改造計画を推進してきたし、もう大丈夫かな。ショートヘアに頼らなくても。そう思えたいま、わたしは肩先まである金色の毛先を愛している。
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