幼い日の夢を追ってスイスへ。きっと留学はゴールじゃなかった

物心ついた頃から「将来は海外留学する」ことをずっと夢みていた。大好きなクラシック音楽、海外の歴史や文学、テレビで映し出される美しい街並みと豪華絢爛な城、荘厳な教会。誰よりも行きたくてしょうがなかったのに、海外研修がある学校に通っていたのに、家庭の経済的な理由から、大学を卒業するまで、その夢は叶えられなかった。
「私立の音大は学費を払えないから、公立にしてくれ。公立の大学に合格すれば、留学の資金はどうにかする」
というのが、高校3年生の時に交わした父との約束だったので、一浪して公立の芸大に合格し、海外の大学院に進学できるよう行動を始めた。夢を叶えるには、目標達成に向けた緻密で根気強い努力と、情報収集が必須である。2年間は、ひたすらに情報収集。留学している先輩の話を聞き、有名な演奏家がどこで教えているのか調べ、来日公演があれば足を運び、ついでにレッスンがあれば、聴講させてもらった。
3年生からは、来日する先生たちのレッスンを実際に受講し、あとはドイツ語圏の学校で絞ったので、ドイツ語の勉強を始めた。4年生で交換留学生の選抜にも挑戦したが、それは叶わなかった。
最初に海外へ行ったのは、大学を卒業した年の8月。交換留学で習いたかった先生が、講師として参加している音楽講習会が、スイスで行われることを知って申し込んだ。講習会の始まる1週間ほど前に、『先生の家庭の事情で来られないので、先生を変更します』と無茶苦茶な連絡が来て、それが幸運の始まりだった。
その講習会で意気投合し、「君の音楽が大好きだ。僕のところへ勉強しに来ないか?スイスのルツェルンという街で教えているんだが…」とラブコールを受けた。そう言ってくれる先生のところに行こうと決めて、先生探しをしていたので、まさか最初に出会った先生に言われるなんて信じられなかった。しかも彼は、世界でも指折りのオーケストラの首席奏者で、背が高くて若くて容姿端麗で、ほとんど恋に落ちるように彼のいる学校への受験を決めた。
秋に来日するというので、会い行ってレッスンを受け、「ドイツ語を喋れないと不合格になることがあるから、死ぬ気で勉強してこい」と言われたので、翌年の2月からドイツのフライブルクという街に移り、毎日語学学校に通いながら受験準備を進めた。
フライブルクからルツェルンは電車で2時間なので、時々彼のレッスンを受けにルツェルンへ通い、4月に受験して無事に合格を掴んで一旦帰国。9月から、大学院生活が始まることとなった。大学を卒業してから進学が決まるまで、全く苦労がなかったことは、本当に幸運だった。
それから先生の厳しいレッスンに心折れかけ、自分の夢が「勉強する」だったことを後悔した。留学することを目標にするのではなくて、留学して将来どうなりたいのか、ちゃんと考えておく必要があった。
そして『演奏家として生きていきたいわけではなかった』ことを認識し、半年後にコロナ禍が始まり、結局スイスでの留学生活は1年半しか保たなかった。幼少期からの夢を叶えて、燃え尽き症候群でもあったのかもしれない。
その後、1年間の休学を取得して中退、という形で終わってしまったけれど、それらは本当に豊かな経験だった。
『本当は何をしたかったのか」と考える時間と、異国語でコミュニケーションを取る能力と、マイノリティになる経験。全てがその1年半の間に濃縮されている。さらにそこで体験した文化の差は、強烈だった。明治維新で日本政府が欧州中に学生を派遣し、物凄い勢いで各国の文化を習得して日本政治に取り込もうとした形跡を思い知り、肌で感じる倫理観を浸透させようとした教会の努力の歴史。その中で、『本当にしたいこと』を見つけられたこと。
全員が留学するべきだとは思わないけれど、少しでも興味があるのならおすすめしたい。ここには書ききれなかった苦労も喜びも、まだまだたくさんある。ここでの私の道筋が、誰かの参考になることを祈るばかりだ。
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