私は日本の公立高校を卒業したのち、海外の大学へと進学した。一般的に考えられる留学の形とは違うが、海外に在留して学ぶという辞書的な意味の留学と照らし合わせたら、私の経験もまた留学だろう。

実際私は自己紹介する際、「留学しています」と言うことが多い。そしてその次によくもらう質問がこれだ。「なんでわざわざ海外の大学に留学したの?」そのたびに私は言葉に詰まってしまう。

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そもそも私はいつ自分が海外の大学に留学したいと思うようになったのか、明確な時期を思い出せない。中学生の頃には漠然と海外の大学に行きたいなーと思ってはいたものの、それはあくまで曖昧な夢だった。今振り返れば私はどこか日本の学校で居心地の悪さを感じていて、そこから逃げ出す手段として留学という夢を持ったのかもしれない。制服、厳しい頭髪に関する校則、みんな同じであることが求められる学校という社会。その中で私はハーフというバックグラウンドもあり、どうも浮いているように感じていた。実際に浮いていたのかは定かではないが、自分自身で自分が浮いていると思い込み、居心地の悪さを感じていた。

逃げとして留学を選んだ私だが、それは私にとって初めての、大きな人生の選択でもあった。自分が本当は何がしたいのか、何が好きなのか、そして自分自身が何者かもわからずに飛び込んだ異国の大学生活はハードルだらけだった。英語で話す勇気もなく、友達との会話に混ざれない。授業にはついていけず、セミナーでは発言できない。周囲が自分の夢やキャリアプランを語る中、私は日々の勉強と生活をこなすだけで精一杯だった。存在感を示せない自分が惨めで悔しかった。よくある留学中の挫折だろう。そんな中私を救ってくれたのは、必修授業の中にあった聞きなれない社会言語学という学問だった。

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社会言語学は、言語が社会とどのように結びついているかという学問だ。例えば私たちは様々な社会的な価値観に基づいて、無意識にひとつひとつの言葉を選んでいる。社会言語学ではその社会的な価値観と言葉のつながりを分析したりする。人間と言語や社会は切っても切り離せない。だからこそ目の前で起きる会話や書かれる文章、人間が言葉を扱っている瞬間の全てが研究対象になりえる。それは私の過去の日本で感じた違和感や自分のアイデンティティを紐解くことにも役立った。例えば日本の田舎で、周囲がほとんど日本語だけで育った中、バイリンガルとして言語を混ぜて話す家庭環境で育ったことで周囲からは不思議な目で見られたこと。そういう小さなことの積み重ねで居心地の悪さを感じていた自分。社会言語学ではその理由を紐解くことができる。「言語を混ぜて使わないのが普通」という考え方が広まっているのはなぜか?その普通はどのように生まれ、当たり前として定着していったのか?

社会言語学は、過去の私が感じていた違和感と向き合う視点をくれた。そして、かつての居心地の悪さや周囲との違いは、単なる過去の記憶ではなく、エッセイを書くときや、これから学問として何を研究していくかを考えるときの大切なヒントになった。この学問との出会いが私の逃げだった留学に意味とモチベーションをもたらしてくれた。

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留学した理由ははっきりとはない。でもとりあえず飛び出してみてよかったと今は思う。たとえ消極的な理由でも、準備が不十分でも自分で決めて選択したことであればがむしゃらにやっているうちに何かが見つかる。私はそうやってこの数年、ヨーロッパの国を渡り歩き、自分のやりたいことを探してきた。行動すれば何かに出会える。留学したことで私は目的地を探し続けるという勇気をもらった。あのときの「留学したい」という曖昧な夢が今も私を動かし続けている。