「メリ!」

店員のマルコの声にハッとしてノートパソコンから顔を上げる。声がした方を見やると、彼は階段の下を見ながら壁をコンコンコンと叩いていた。メリ、と呼ばれた彼女は両手にケーキの皿を持って階段を駆け降りていて、マルコの声には気づいていない。マルコはわずかに顔をしかめて、彼女を追いかけて階段を下りていく。

彼の背中を見送りながら私は、そうか、メラニーという名前はメリと略すのか、と思っていた。

大学時代の10ヶ月間、オーストリアに留学した。フランクフルトから飛行機を乗り継いで、飛行機の窓から見える雲が開けたとき、明るい茶色の屋根が一面に広がっていて、そのときにようやく、ああ私は本当にこの街に住むんだ、と実感した。

まさか私がオーストリアという国に行くなんて、しかも1年近く住むなんて、大学に入るまで思ってもみなかった。

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もともと、勉強しようとはあまり思っていなかった。
留学したいと思っていたことは事実だ。だから留学先が充実した大学を選んだ。だけど、正直なところ私は勉強よりも書くことが好きだった。10ヶ月の留学に飛び立つと決めたのは、ゆっくり書く時間が欲しかったからだった。

だから私は留学先の大学でも最低限の講義しか取らずに、ほとんど学校に行かず、どこにいたのかといえば、街の片隅のカフェだった。オーストリアはとにかく街にカフェが多い。オープンテラス席が立ち並び、そこにはいつも人がいた。私はオープンテラスでは落ち着かないから、初めて勇気を出して入ったカフェの2階の、パントリーが近い席に座り、いつしかそこが私の定位置になった。
その席を担当していた店員が、メラニーという女の子だった。

メラニーときちんと話したことはなかった。店に入って挨拶をして、席についた私に彼女が注文を聞きに来て、私はいつもココアを注文し、彼女がココアを持ってきて、私はテーブルで会計をする。そうしてノートパソコンを開き、いつも大体2時間くらい小説を書いて、そして挨拶をして帰る。そんな日々がただ続いた。

私はきっと、珍しいアジア系の女の子だっただろう。それでも彼女は私に構うことはなく、たくさんいる客の1人として、私を放っておいてくれた。それが居心地よくて、私はほぼ毎日このカフェに入り浸った。

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だけどその日は不意に訪れる。
私には肌身離さず持ち歩いているものがあった。電子辞書だ。その日も、帰り際にふと壁に掛けられたプレートに書かれた言葉の意味が気になって電子辞書を開いた。「上着を忘れても責任は負いません」そんな意味だったと思う。私は納得して頷いて、電子辞書を鞄に仕舞おうとした。

すると、おもむろにメラニーが近づいてきたのだ。彼女はテーブルに指を乗せて、かたかたとキーボードを打ち込む動作をして、それは何?と私に問うた。

突然のことに驚いたけれど、パソコンのこと?と聞き返すと彼女は首を横に振る。私は考えて、もしかして電子辞書のこと?と気づく。鞄に仕舞おうとした電子辞書を見せると、彼女は目を輝かせて頷いた。そうか、ここには電子辞書がないから、珍しいのだ。

これは辞書だよ、と、拙いドイツ語で私は言う。私は日本人だから、これを使って言葉の意味を調べているの。
そうしたらメラニーはしげしげと私の電子辞書を見て、"Schön!"(すてき!)と言った。
その瞬間、いきなりひらめいた。これが私と彼女の人間関係だと。私だけの留学生活は、この場所にあるのだと。

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勉強をサボった結果、私は最後までドイツ語があまり上達しないまま帰国した。10年以上が経ち、あのときの私には「勉強しろ!」と言ってやりたい。実際、全然勉強しなかったことを少しだけ悔いた。

だけど、あれはあれで、ひとつの留学の形だったと思う。街の片隅、カフェの2階、甘いココア、そして、メラニー。

私は留学によって自分が成長したとはあまり思っていない。相変わらず腰は重い、面倒くさがり、人が見ていないところではすぐにサボる、やりたくないことはやらない。今、留学の経験を活かした仕事に就いているわけでもなく、記憶はただ胸に秘められているだけだ。

だからこそ今思うのは、留学しようがしまいが、どっちでもいい。あらゆる経験には等しく価値がある。
だけど留学しなければ、私はメラニーに出会うことはなかった。

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鞄を持って席を立つ。私たちの別れの挨拶はいつしか、定型の"Auf Wiedersehen"から、親愛に満ちた"Chao!"に変わっていた。