わたしにも初めて、夢ができた。大学3年生の夏のことだった。

◎          ◎

高校生の頃のわたしは、これといってやりたいことを見つけられずにいた。数学の授業は好きだけれど、英語の授業は眠い。夢を持った同級生たちは皆キラキラしていて、夢に向かって自分よりも何歩も進んでいるように見えて、応援しながらも、置いて行かれたようで気後れもした。

しかしある日、そんな学校生活は一変する。新型コロナウィルスが蔓延し、わたしたちは学校に通えなくなったのだ。録画された授業映像を観るだけの毎日でも、初めのうちは楽しかった。オンラインミーティングで「先生の家、豪邸じゃない!?」と騒いだあれは、今ではデフォルトの背景画像だったと分かる。先生たちも生徒を楽しませようと、NGカット集まで作って配信してくれた。家でじっと過ごしているだけなのに、大学受験までのカウントダウンは淀みなく進んでいく。「自分は何がしたいのだろう?」と、「夢がないこと」を悩む時間も増えた。

◎          ◎

2年生の秋、自粛要請が明け、学校や予備校の日常が少しずつ取り戻されていった。予備校で出会った友達が皆優秀で「〜大学に行く!」と口を揃えて話すので、わたしもそこを目指すことになった。他の誰かの夢を借りることにしたのだ。そうして始まった受験生活は、思い描いたようには進まなかった。模試で悪い判定を見るたび、うまく出来ないことにも、本当にその学校に行きたいのか分からないことにも、イライラした。一方で友達は順調に成績を伸ばし、宣言通りに合格した。わたしは不合格に終わった。苦しい時期も経験しながら、たくさん踠いて頑張ったつもりだった。でも悔しい反面、これで良かったのかも、と思っている自分もどこかにいた。

幸い、進学先での授業がどれも自分に合っていたようで、楽しく勉強に励む大学生活となった。1年生の夏には、たまたま見つけたリゾートバイトをきっかけに、初めて1ヶ月、ひとり東京を飛び出した。中にはつらい日もあったが、そこで出会った人たちに大きな影響を受けた。彼らは、「ここに行きたい」「こんな人に会いたい」など、小さな夢をいくつも持って叶えていく生き方をしていたのだ。大きな夢を持たないわたしでも、これなら出来るかもしれない。その日を転換点として、わたしの学生生活は豊かになった。特に地方に関心があったため、リゾートバイトやお試し移住など、全国を飛び回るようになった。その中で特に印象的だったのが、気仙沼との出会いだった。

◎          ◎

宮城県気仙沼市は、東日本大震災で大きな津波の被害を受けた。その事実をあまり意識しないまま、フィーリングで参加した滞在プログラムだったが、街の至る所にのこる震災の爪痕や、伝承館での展示を受けて、徐々に「津波」や「震災」といったキーワードに関心を持った。何より2週間の滞在で、まちに大きな思い入れが生まれたのだ。大切なまち、大切なひとが津波で傷つけられるようなことが、二度と起きてほしくない。自分に何ができるだろう?その一心で、その後も被災地に足を運んだり、関連するシンポジウムやセミナーを調べては参加した。

大学3年生の夏のことだった。ある記事に出会った。簡潔に言うならば、「地震発生後、速やかに津波被害を予測する技術」についてのもの。これだ!と思った。大学で専門的に学んでいることと、「津波」というキーワードが見事にマッチしたのだ。自分の「できる」と「知りたい」が手を取り合った瞬間だった。人生で初めて、誰かに語れる夢ができた。

◎          ◎

それからは夢を叶えるための準備として、貯金とアルバイト、勉強に専念している。夢ができたわたしは、以前よりもずっとまっすぐで、強かった。

せっかちにも、のんびり屋にも、夢はいつかちゃんと降ってくるのだろう。わたしはその日まで、目の前にあるものをこなし、「Wish List」をひとつずつ潰していくだけだった。でも、それらはちゃんと、夢を育てる土台の準備だったのかもしれない。