3.11で大規模な津波の被害を受けた田老のまち。実は震災直前の2010年の8月の夏休みに、家族で田老を訪れた。田老での滞在時間は1日という短いものであった。それでものんびりとした温かな息遣いは感じられ、居心地がよかったのは覚えている。中でも、印象的だったのはまち全体を覆うようにずっと伸びている巨大防波堤であろう。

田老には「津波防災のまち」とも呼ばれ、自然災害に翻弄されながらも懸命に抗い続けてきた。何度も津波が直撃したことで、村民は辛酸をなめさせられたそうだ。甚大な被害をもたらした明治三陸津波と三陸大津波の後に、防波堤が着工される運びとなった。そして、高さ10.65m、総延長2.4kmにも及ぶ巨大防波堤が完成した。

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防波堤の内側からはまったく海が見えなかった。階段を上って、てっぺんに立つことでやっと広大な太平洋を拝むことができた。歩道にもなっている防波堤をずっと歩いていくと断崖絶壁のようなところにでる。父が、勇猛果敢、あるいは無鉄砲というべきなのか、足場の悪い岩を伝って沖に向かってギリギリ行けるところまで進んだ。肝をつぶしそうになりながら、自分も危なっかしい足取りで父の後を追いかけた。波が沖に立っている奇岩に強くぶつかっては引いていく様子が、岩場から見えた。当たり前だが、南の島のように透明感があったり、色鮮やかな熱帯魚が見えるような海ではない。だが、荒々しさもありながら波は一定の動きを見せてくれ、平穏というものが心に刻み込まれた。

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民宿での夕食では、ドンコ丸煮という田老名物の、鯉と同サイズの魚を丸ごと煮つけした料理が提供された。見た目のインパクトさながら、甘じょっぱい味わいは今でも易々と思い出せる。

そして、お腹を満たした後は、港から打ちあがる花火を堪能した。地方だからささやかな花火なのだろうと思って鑑賞していたが、視界に収まりきらないほどの大輪が夜空に咲いたときはあっと言わざるを得なかった。その晩は花火しか目に入っていなかったが、今思えばその時に居合わせた大勢の人たちもかなり印象深かった。こんな小さな町のどこからこんなに溢れかえったのだろうかというほどに、港は人人人で埋め尽くされていた。

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訪問から約7か月後の3.11その日、テレビでは、太平洋側の海岸線のほとんどが「巨大津波警報」を意味する赤色の線で埋めつくされた。画面から目を離せないのと同時に、花火大会の場にいた人々の身を案じた。危惧していたことは、残酷な現実となった。防波堤を越える巨大津波が襲来し、田老は著しい人的・物的被害を受けた。私の眼には非常に頼もしく見えた防波堤は大破し、家も人も飲み込まれてしまった。聞くところによると、かつて海岸線ぎりぎりに家が連なっていたところは更地となり、住民は高台移転を果たしたという。現在、住宅街があった浸水区域にはソーラーパネルが設置されている。大災害によって、かつての町の面影は薄らいでしまった。

実際に踏んだ田老の地は、「花は咲く」の一節にある歌詞同然に、すっかり過去のものとなっている。町そのものは往時のものとは異なるものとなったが、花火大会は現在も継続しているらしい。今でも時たまに「田老」と検索することがある。その度に検索結果に表示される花火大会の写真を目にしては、空一面に広がる花火、一緒に夜空を見上げた人々の姿は15年近く経った今でもなお、目に焼き付いて離れない。