ゼッタイに留学に行きたい…!
その思いで駆け抜けた大学時代だった。

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留学に行きたいとはじめて思ったのは高校生のとき。授業中、何もかもが平凡で面白くないなぁと思っていた私が、唯一興味があったのは海外のこと。「外国に行って英語をしゃべって、いろんな人に関われば、この平凡な毎日をぶち壊せるだろう」と思った。だから、大学は国際関係の学部にして、交換留学制度がきちんと整っているところを選んだ。

大学生となり、留学するためにできることは何でもした。TOEFL(留学志願者向けの英語テスト)の勉強、英語の授業の課題、留学説明会への参加、オンライン英会話など。ようやく、2年目の秋からのアメリカの大学の交換留学生に選ばれた。

しかし、その年にはちょうどコロナウイルスが蔓延。私は念願の留学に行けなかった。大学から留学中止のしらせが来た時、「あんなに頑張ったのに」と正直落ち込んだ。でも、すぐに感染が収まり渡航できる可能性を信じて、英語の勉強は怠らなかった。

結局、その1年は留学に行けなかった。私が大学3年になったとき、再び留学の応募期間がやって来た。私はもちろん応募して、またもやアメリカの交換留学生となることができた。

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しかし、その当時「ゼッタイに留学したい!」という意思が強かった私は、安易な路線変更をしてしまう。3年の秋からのアメリカ留学が決まっていたのにも関わらず、それを辞退して4年春からのオーストラリア留学を決意したのだ。

理由はアメリカよりもオーストラリアの方が、コロナの影響が少なそうだったからだ。だが、そのオーストラリアの大学はTOEFL高得点を出さないと留学許可が下りず、私はその基準に達していなかった。

だから「博打だけどこれは英語レベルアップのチャンス!」と思ってテスト勉強をした。早く現地の英会話を学びたいと思いつつも今は我慢だ!と思いながらそれは必死に、だ。TOEFLテストを何回も受ける。けれども私の点数は基準をクリアしなかった。あと2点だけ足りなかった。私なら絶対に届くだろうと慢心していたし、2年間もの勉強疲れが出ていたのかもしれない。

結局、TOEFLうんぬんではなく、コロナの影響でオーストラリアから留学許可は降りず、またもや私は留学に行けなかった。ただ、3年秋から行く予定だったが辞退したアメリカの留学先は、渡航許可が下りたというしらせも同時に聞いた。

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「どうして私は、私だけが留学に行けないの…?」

膝から崩れ落ちた。
博打にも英語の実力も、何にも勝てなかった。
アメリカの留学先にしておけば行けたのに…!

泣きながら留学支援センターの職員さんに電話で話した。こんなに頑張ってきたのに、あんな選択をしなければよかった…「留学すごいね」と言ってくれた友達、「やりたいようにしていいよ」と言ってくれた家族の顔が思い浮かぶ。後悔と無念な気持ちでいっぱいで、収拾がつかなかった。

その後、そのまま日本で就活するか迷ったが、「ここまでこだわり抜いたら、絶対にやってやる!」という気持ちで大学4年の秋からアメリカの大学に留学することができた。気づけば、留学を志した15歳のときから7年が経っていた。

留学中、色んな人との出会いがあった。私があんなに切望していたアメリカに、私が存在していることが不思議に思えた。「やっと願いが叶った」と思うのも束の間、慣れぬ異国の授業を受けて、友達を作って、旅行もして…と充実した10ヶ月はすぐに過ぎ去っていった。

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今思い返せば、留学に行けなかったあの時期は本当に苦しかった。辛かったからか私の記憶からは完全に消えていたが、留学について書くにあたりこの苦しみをまざまざと思い出すことができた。

最初は漠然とした海外への憧れだったのに、それがコロナ禍を経て執念、恨みへと変わっていった。「努力は報われる」とはよく言うが、私のそれは努力ではなく、ただおっかないほどに留学にしがみついた結果だった。現在社会人となり、のうのうと日々を過ごす私には、どうして「留学」が私をそこまで突き動かしたのかわからない。

でも、その苦労に後悔がないのは必死にがむしゃらにやり遂げたからかな。今は外国とは縁遠い仕事をしているが、留学前後を通して培った粘り強さ、根性は今のハードな人間関係の仕事でも役立っていると言えよう。