将来の夢を聞かれることが苦痛だ。子供の頃の興味なんてコロコロ移り変わるのに、将来的な一貫性のある夢なんて無理があるだろうと今では思う。その一方で子供の頃からの夢、と憧れの職業に就く人もいる。大抵その職業に就くには、勉強など並大抵ならぬ努力が必要であり、一貫性がなければ叶えられない。興味なんてコロコロ移り変わるから将来的な一貫性のある夢なんて無理、というのは私の場合のようだ。私とその人たちとの違いは何なんだろう。

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夢というと絵空事のようで、大人になった今ではしっくりこない。でも、やりたいことと考えるとグッと身近になる。しかし私はやりたいことがない。もはや夢以前の問題と言えよう。

やはり生育環境か。父親の顔色ばかり伺って、怒られないような選択ばかりしていた。あたかも自分の意思のように。常に私には正解が用意されていた。参考書を開いても載っていない父の正解を当てるのは受験勉強より難しかった。

父から離れたところでその癖が抜ける訳でもない。今の自分の状況であればどう振る舞うべきか。常々考えてしまう。それはたどり着きたいのが、父の正解から世の中の正解、セオリーに変わっただけだった。もちろん自分の意思などそっちのけである。

どうしてそうなってしまうのか、と問われたら楽だからがいちばんだと思う。まず自分の意思などそっちのけと言っても、そもそも自分の意思が分からないのである。下手な他人よりも自分のことが分からない。毒親育ちあるあるではなかろうか。よく分からない自分の意思を探るより、既にあるセオリーの方が分かりやすくて楽だ。そして何より楽なのは、セオリーを選んでいれば世間体が良いことである。

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そんな楽には落とし穴がある。自分の意思ではない選択と決定だと、壁にぶち当たったら踏ん張れないのだ。だって自分の意思じゃないし、そうせざるを得なかったし、というのが自分に対する言い訳の常套句だ。

他でもない自分の人生なのに、なんとも他人事のようだ。そもそも自分にとって自分が他でもない存在になれていない。もう夢とかやりたいこととか、それ以前の問題のような気がする。でもここが違いなのだろうか。自分という存在が自分の中で他でもない存在であるかどうか。それが夢がある人、持てる人と自分の違いなのかもしれない。もしそうだとしたら、私が夢を持つには途方もない時間がかかるだろう。私が夢を持つ前に儚くなってしまいそうだ。夢を持つことが夢とも言える。いや、それだと夢を持てていることになるから違う気がする。

夢を持ちたいかと考えると、そうだとも言えない。夢がある、やりたいことがある、それが是とされる世の中で、認められたいその一心だけかもしれない。どんなに世の中から肯定されても、いちばん自分の近くにいる自分に肯定されなければ満足できないだろうに。

有名人が、自分の意思がないならないで周りに流されて思ってもないところにたどり着けて良いじゃないというようなことを言っていた。自分の意思がないわけではないのだがそれに近いので、この考えを支えにしている。自分の意思が分からないのは悪いことじゃないと。しかし、自分の意思がないと、周りに振り回されて、疲れやすい気がする。周りに流されるのは難しい。大抵は振り回されておしまいだ。うまく流れに乗れず、溺れていると言っても過言ではない。流され上手もまた難儀である。

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自分にとって自分が他でもない存在になるか、流され上手になるかどちらも難しい。なんというか、こんな小難しいことを考えずに生きていくのが、私の夢なのかもしれない。