小さいころから確固たる夢があった。国際協力にかかわりたいという夢だった。社会科で世界の状況を知ってから、絶対にかかわりたいと思っていた。そのために学部も関連のあるところを選んだし、留学も叶えた。

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しかし、前エッセイにも記したが、留学中にメンタル不調に陥り、帰国後の就職活動では自分のことを自信をもってアピールすることができず、どこにも就職が決まらない状態で卒業をした。メンタルクリニックとカウンセリング以外は外出できない日々が続いた。

この経験からわたしは、夢を追ったせいで人生が狂ったと考えるようになった。夢とは呪いだと。小さいころから反対してきた大人たちの意見を素直に聞いておけばよかった、と。
そこからは、夢を引きずりつつも、食っていくための資格を取るため、社会復帰の練習の意味も込めて学校に通うことにした。それまで学んでいたことや目指していた分野とは、まったく関係のない分野だった。

興味ではなく、お金を稼ぐために取得した資格ではあったが、これが意外にも、新たな自分の興味にはまり、楽しく学んだのだった。学校では、方向転換のために通う社会人経験のある人たちとの出会いもあった。そんな人たちと学友として過ごす日々は、学生のころに参加したインターンや企業訪問よりも何倍も、正直な体験談を聞く機会となり、経験した人たちから温度感のある話から、社会とはどういうところかというフレームを知るきっかけとなった。その時に取った資格が買われて今の仕事に就いた。

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そこからのわたしは、夢の定義を変えることにした。完全に割り切ることもできず、かといって無謀なものを目指し続けることも現実的ではない。大きな夢を叶えるための一発逆転を目指すのではなく、一歩ずつ進んでいく。

具体的には、現状に何となくもやもやしたときに、「自分は今なにを望んでいるのか」を自分との対話で仮説を立て、「現在地からその方向に近づく一歩は何か」を考え、「同じ毎日の中にその一歩を入れこみ試してみる」ことだ。

大きなことでなくてもよくて、例えば、人から鍼がとてもすっきりすると聞いて数年気になっているけど行ってない、と気づいたら、近くで行けそうな値段の場所を探し、予約をしてしまうとか、今までとは異なるカラーのメイクをしてみたい自分に気づいたら、手に取りやすい価格のものでいいから、買って試してみる、とか。もちろん、一度も絵を描いたことがないが、絵画展を開いてみたい、とかでもいい。その場合の小さい一歩は何だろう。インスタで絵をかいてる人をフォローして毎日眺めてみるとか。鉛筆で紙になにかを書いてみるとか。

とにかく、小さく分解して、今の自分にできそうなことを試してしまうこと。現状にもやもやしているのに、明日からも同じ日常が続き、気づいたら時間が過ぎていることがなにより一番こわい。小さなことでも、試していくと流れが変わっていくし、なにより自分自身に、自分が望んだことを叶える力がある、と思い出させることができる。

試していくうちに、望んでいた夢が変わっていくことだっていい。それは新たな試みをしているからこそ見つかることだ。長い社会人人生を生きる私たちに必要なのは、初志貫徹ではない。大人の財力と自由があるからこそできるモラトリアムなのだ。

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日々につかれて、自分の望みなんてわからない日のほうが多い。望みがあっても、かなえてあげる気力がない日もある。それでも、わたしは、わたしたちは、自分の望みを発している。どうか、その声を逃さないで。