私は、東日本大震災がきっかけで生まれた一つの小さなトラウマが理由で、外出時には肌身離さずスマホを持ち歩く。

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その時私は学校にいた。電車通学をしていたその学校では親が迎えに来ることになり、先生から普段は使用禁止されている携帯電話を使って連絡して良いという許可が出た。私は携帯電話を所持しておらず、他のクラスメイトが連絡を取る様子を心細く眺めていた。

友人から「うちの親が一緒に連れて帰るって」と知らされ、ようやく自分の行く末を確認できたのは発災から3,4時間後、日も暮れてクラスメイトが半分ほど帰宅した頃。無事に私も帰宅し、落ち着いた数日後、「ママが『みんな携帯電話を持っているわけじゃないよ』って言うから信じていたのに!クラスで持っていなかったの私だけじゃん!」と小さく怒り、それ以来今も祖父母の笑いのネタになりつづけている(ネタになる程度の小規模な被災だったのが救いでした!!)。その後、親から携帯電話を与えてもらったが、14年経ってもなお、連絡が取れない不安は忘れられず、地震発生時刻の15時46分を時計で目にするたびに当時を思い出して小さくため息が漏れる。

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そんな私が「スマホ断ち体験」をできたのは、翌朝が早いため仕事先の近くに宿をとった1日のこと。スマホを身につけはするものの、大規模な発災でもなければ家族の無事を確認する必要もなく、仕事先に行けば安全も確保されるので、スマホ断ちできるかも…!と思ったのだった。

ここからはスマホ断ちで得た気づき。
その一。忙しいとスマホを触らずとも時間はあっという間に過ぎる。仕事を終えた夕方からご飯を用意する、風呂に入る、とバタバタ過ごしていると意外と時間は過ぎている。万が一の暇つぶしに本も用意しているので飽きない。私にとってスマホはあくまで暇なときに触るものなんだな、と気がつく。SNSの連絡は1日くらい見なくても大丈夫だ。

その二。なんだかんだ仕事でパソコンを使うと、スマホを使っているときと同じような時間が発生する。ぼーっとしたときに業務関連のウェブサイトをのぞいたり、職場内掲示板で面白いネタや楽しそうなイベントを探したり。出張先のホテルサイトを確認するだけのはずなのに、気づいたら「近場の観光スポット」というボタンをポチっとしていたり。なんだかんだネットサーフィンとやっていることは変わらないじゃん、とセルフツッコミが入る。知的好奇心が強く、情報収集能力を強みとしている私にとって、ネットの海を漂う時間は欠かせないのかもしれない。

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特に代わり映えしない1日においてスマホは大して必要じゃないんだな、という気づきを得たものの、毎日を過ごしているとスマホの偉大さに気づく。私はモバイル交通カードを使っている。その時点でスマホを使わない生活は難しい。次に、決済もスマホで済ませる。こちらはスマホがなければ現金やクレジットカードを用いれば済むが、あくまで「代用できる」だけであり、むしろスマホを持ち歩けば財布を持つ必要もなく、荷物が軽くなる。

さらに、銀行からの預金引出や振込、引き落とし確認もスマホ1台でできてしまう。めちゃくちゃ便利。というかもはや便利さの問題ではなく、これだけ重要な情報が詰まったスマホは手放すほうが危険である。他にも、スマホがあれば画面の中で動く推しを観ることができるし、親も外出先でぐずるわが子の気をそらさせることができるし、1枚の板が何でもできる時代になったな、と感じる。

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冒頭のような危機感を持つ私のスマホには、防災アプリや帰宅困難時の避難者受け入れ用LINEも登録されている。スマホは私を不安から守ってくれる相棒だ。関係を断つことはできない。