憧れていたはずの東京の喧騒に飲まれ気付いた、身近なオアシス

先日上野のゴッホ展に行った。私は絵描きではないが、ゴッホには個人的にシンパシーを感じていたこともあり、かなり楽しみだった。
展示はどれをとっても素晴らしく、ゴッホが弟と共に収集していた絵もゴッホ自身が描いた多数の絵も、魂に響くものばかりであった。特に人々が作品の前で長く足を止めていた自画像は、その黒く深い瞳の底に吸い込まれるような魔性的な何かがあったように思う。技法の知識や審美眼があるわけでもなんでもないが、ひどく惹きつけられた。
37歳で亡くなる数ヶ月前に描いた絵も飾られていた。それはゴッホの作品のテーマによく登場する農民の家だったが、線にどこか歪みを感じ、確かに不安定な心の動きが出ていたような気がした。
美術館に行くと、脳をフル回転させてああでもないこうでもないと勝手気ままな考察をするのが楽しい。そういう意味でも芸術は非日常を感じさせてくれる。忙しない生活の外に意識が行って、時代をも自在に行き来できるような感じがするのだ。
貴重な展示を観た後、グッズも購入した。恋人とお揃いの花柄のバッグ、展示の中で1番感銘を受けた、ゴッホがジャポニズムに影響されて描いたという作品のクリアファイル、ひまわりのキーホルダー。
大満足で美術館を後にした。美術館の中に客はたくさんいたが、みんな作品を観に来るという目的があるので、人混みが苦手な私でもなんとか耐えることができた。むしろその一体感が、心地いいとさえ思った。
しかし、上野から原宿へと足を伸ばすと、その人混みへの好意は途端になくなった。無秩序な人々の群れ、ここは日本かと疑うほどの多国籍さ、生き急ぐ若者たち、立ち並ぶ建造物などに心底圧倒されたのだ。何度も原宿へ行ったことがあるはずなのに、初めて来たかのような錯覚を覚えたのである。
本来、原宿へは明治神宮への参拝のために来たはずだった。だが、ゴッホ展の鑑賞が予定より延びたことと雨が降ったことによって頓挫したのである。
群衆のエネルギーに流されてしまったのもあるかもしれない。雨が降ろうと初志貫徹で参拝に行けばよかったのに、私たちの足は竹下通りへと向かっていた。
ドーパミンを大量分泌させる商いの数々にほとほと疲れ果ててしまい、更にその日は2人揃って寝不足だった。
オモカドの洋服屋にあったベストを私が「可愛い〜」と言って手に取ると、恋人が「痩せてる人によく似合いそう」と口を滑らせた。原宿を歩くイケてる女たちの中で引け目を感じていた私は、「はぁ、私には似合ってないってこと?」とすかさずケチをつける。嗚呼、いつもならそんな曲解するはずないのに。すると「そういうこと言ってるんじゃないし」と普段穏やかな恋人も静かに苛立ち始めた。
寝不足と疲れは恐ろしい。そして運の悪いことに山手線が事故によって運転休止になった。原宿から見知らぬ駅まで地下鉄に乗り、そこから東京駅のバス乗り場に着くまで私たちはほぼ言葉を交わさずに、距離を取って歩いた。
あまっぷりかざっぷきの丸の内のオフィス街を、ズンズン突き進む。夜のビル群の美しさに気を取られつつも、夜ご飯も買わずに高速バスに乗り込んで、ネチネチと恋人に言い迫った。はじめは寝たふりをしたりスマホを見たりしていた恋人だったが、人目も憚らずプチ喧嘩に発展した。最終的には丸く収まったものの、この時2人の脳内にはゴッホ展のゴの字もないほどに互いへの怒りの感情で一杯だったと思う。
今回のデートで、私は確信した。近頃東京に行くと精神面が毎度不調に陥る。
前はキラキラしていて、新しいものがたくさんある、ただただ憧れで楽しい場所だった。 しかしこの頃は欲望と焦燥と物質・資本主義が暴走する恐ろしい場所のように思えて仕方がない。行く街によるのかもしれないが、散々こき下ろしていた地元の田園風景がこの上ないオアシスのように感じられるほどだ。
もう20年以上抱えてきた東京への憧憬の気持ちとは、そろそろ決別しようと思う。幼くして魅せられた都市の幻惑に長年心奪われたままだったが、私には自然豊かな地が合っているようだ。
相変わらず都市に住んでいる人への畏敬の念は絶えない。だが、ゴッホが好んで描いてきたような美しい風景は、国は違えど実は暮らしの近い場所に存在していたのかもしれない。
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