わたしは極度の人見知りだ。

そのことで初めてみじめな思いをしたことは、今でもはっきり思い出すことができる。
もう何十年も前のこと。わたしが小学生の頃だった。ずいぶん年下の下級生に「おねえちゃんはなんで黙ってるの?おしゃべりできないのかな?」と、からかい半分に話しかけられた。みんなが見ている。下級生に言われるなんて、ああ、恥ずかしい。わたしは真っ赤になりながらただうつむくことしかできなかった。

いつもモジモジしている。あいさつさえまともにできないのだ。
極度の人見知り。
これがわたしのコンプレックスである。

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意味もなく何かから隠れるように生きてしまうのはなぜだろう。声は虫のように小さく、伝えたい肝心なことは誰にも届かない、というより届けることができない。ときに人をイラつかせてしまう。

こんなんじゃみんなわたしのこと嫌いだよね。そう思い始めると、もう負のループの始まりだ。くやしくても貝のように口を閉じたままこっくりうなずくだけのコミュニケーションしかできない。

だが、わたしはもがいた。
このままの自分では何をやってもうまくいく気がしない。人生の楽しみを人の半分しか味わえていない気がしてならない。

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無意識レベルでコミュニケーション能力の高い人がいる。自分とはキャラの違いすぎる派手な人たち。幸せで楽しそうな彼は彼女はどうしてあんなふうにできるのだろう。
派手な人、派手な人生への憧れ。
そんな反動からの極端な憧れにより、わたしの人生は悶々としていた。

仕事が、恋愛が、人生がうまくいかないのも全部人見知りのせいだと思った。本気で自分を変えたい。

がんばろうとすると空回りしてはしくじりまくる。世間からイタイ人と言われるのは時間の問題であった。
「ウジウジしている自分なんてどうせ何もできはしないんだ」結局行き着く先はこんな考えばかりだ。子供を産んで子育てをする上でもこの人見知りにずいぶん悩まされた。

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そんな悶々としたわたしの足は、自然と書店へと向かうことになる。
いろんな本を読むことによって自分の内側を、感情をこんなにもさらけ出す人々がいることを知り、衝撃をうけた。ずっと飲み込んで閉じ込めてきた言葉たちに出会った。わたしが楽しめる会話がそこにはたくさんあった。
そしてわたしのような人見知りもたくさんいた。

人見知りは悪いことばかりではなかった。コンプレックスを克服することばかり考えていたが、違う視点から見るとそこにはよい面もたくさんあったのだった。
人見知りから人間観察が好きなわたしは本の中をぐんぐん旅した。自分の感情や言葉を受け入れることができた。
抑え込んでいたそれらは、本の中では主役だったのだ。

恥ずべきところを反芻してばかりでは仕方がない。わたしは希望のあるほうへ歩くことにしたのだ。

本を読むこと、表現をすること、そんなことをくるくる考えた。
胸の中から出たがっている感情が少しずつ反応するようになり、わたしは文章を書きたくなった。

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そして今、こうしてエッセイに挑戦している。文章に集中している時間は何よりも楽しい。こんな素晴らしい時間が過ごせていることにこの上ない幸せを感じる。これからどんどん勉強も挑戦もして、自分の世界を広げたい。
こんな素晴らしい時間はコンプレックスがあるからこそもらえたのだ。
そして気がつけば虫のような声も少しだけ大きくなっていた。