「いいなぁ、そんだけサラサラのストレートならアイロン要らずやろ」

20歳の夏休み。友人とコーヒーを飲みながら私が呟いた。

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「指どおり、するん♪」

90年代後期から化粧品化したシャンプーのCMはサラサラストレートヘアがデフォルト。ぜったいに指が引っかかる生まれつきクセ毛の私はそれらが大嫌いだった。

私の独断と偏見を承知で述べさせてもらうが、あの頃の女性の美は直毛ストレートヘアが条件だったと思う。男性の理想だかなんだか解らないが、TVに出る女性歌手や雑誌に載るモデルは茶髪だろうがストレートヘアだった。高校はウェーブパーマは禁止なのに縮毛矯正はOKという謎の「ストレートは絶対正義」な空気(宗教)が在った。

自分のクセ毛が嫌いだったことはなかったし、コンプレックスにしたこともなかったが、「ストレートじゃないと美人じゃない」「ストレートじゃないと女じゃない」といった世間の風潮や常識が苦しかったのを覚えている。

まだ若かったと言えばそれまでだが、世の流行にのれない、メーカーの言いなりになれない=普通になれない=規格外の自分は、世界から要らないと否定されているようで。10代の私にとって「流行」とは、自分を形成するにはあまりに巨大な一部だったのだ。

好奇心からストレートパーマに挑んだものの、かからなかったほど強いクセ毛持ちの私は「逆にすごいやろ!」と笑い話に昇華したほど。

おかげで19歳の春、「ストレートヘアとは遠い異国の舞踏会」とあきらめの境地に辿り着けたのだが――私の内面が変わったところで「ストレート、絶対」という男性優位社会も世の常識も、変わらない。

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「うまれつきやろ?そのストレート」

目の前の友人は私が数万円かけても手に入らなかったストレートヘアを生まれつき持っている。自分はストパーかけて縮毛矯正かけたけど2か月で終了した。ストレートに憧れるのをやめたんや、なんて笑い話をしたとき、友人が言った。

「私はあなたがうらやましい」
「は?なんで?」
「私は直毛すぎてパーマがかからんの。朝がんばって巻いても登校するころにはストレートになってまう。時間とお金をかけても巻き髪が手に入らん」
「えええ?」

私達が20歳の頃。90年代が終わると今度は手のひらを返したように巻き髪ブームが起こった。名古屋嬢、エビちゃん、なんてワードと共に女子大生やOL界では巻き髪がデフォルト。生まれつきクセ毛な私は手軽にヘアセットができると流行を楽しんでいたのだが、まさか自分と真逆の境遇なのに同じ悩みが存在するなんて思わないじゃない?

「うちら、ないものねだりなんやな」

二人で笑った瞬間、カップを持つ指の先が急にあたたかくなったのを今でも覚えている。
欲しいものを手に入れるより、他人をうらやむより、自分だけがコンプレックスだと思いこんでいた弱点を武器にしたほうが幸せかもしれない。
あの日、私は心から自分を好きになる切符を手に入れたのだった。

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あれから20年が経ち、私も自分の髪の扱いが上手くなったのか、クルクルヘアはパーマ?ヴァンス(つけ毛)?なんて聞かれるほどになった。クセ毛の女子児童には「おばちゃんもクセ毛♪かわいいでしょ♪」なんて笑って魅せると、児童もその保護者も笑い返してくれる。昭和生まれ、平成育ちの女性には天パ=悪、みたいな時代があったせいか、私のように堂々とクセ毛を楽しんでいる人は珍しいようだ。

美容師さんもどうしようもできないクセ毛は、私にしか扱えない世界最強のウエーブヘア。コンプレックスがアドバンテージになれたのは「お互いないものねだりなんやね」と笑った日のおかげ。
私は自分のクセ毛が大好きになれたおかげで、自分の全身を愛せてる。そのおかげか?他人様のコンプレックスも「かわいいね♡」なんて優しく言葉がかけられる。
コンプレックス?そんなわけ、ない。親がくれた世界でたった一つの宝物だもの。

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平成中期のあの頃。誰かの作った流行に右倣えして、誰かによって作られた基準になれない規格外の自分を否定するのが当たり前だった。(それは今もかもしれないけれど)

自分のコンプレックスが他人からは「うらやましい」なんて考えたこともなかった。
でも、自分が抱えているコンプレックスや悩みって、刷り込まれた誰か他人の問題であって、実は自分のものではないことが結構ある。
それに気がつけると。コンプレックスは世界でたった一つ、自分しか持ていない武器だと気がつけるとーーーー人生は、楽しい。