劣等感とは、自己認識の中に設けられた一種の「欠落装置」である。言うまでもなくそれは、実在する穴ではない。にもかかわらず、その穴は穴であることをやめようとはしない。穴があるという前提の上に、私のアイデンティティは器用に積み上げられていく。

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劣等感はときに便利である。そこに物事の責任を押し込めることができるからだ。たとえば「愛されない」のは私が醜悪だからで、「評価されない」のは私が無能だからで、「幸福になれない」のは私が社会不適合者だからである。穴がある限り、私は納得できる。穴がすべてを引き受けてくれるので、私は自分を赦さずに済む。その意味で、劣等感は極めて論理的で、信仰に近い。

だがここで奇妙なことが起きる。

そのようにして自分を罰しながら生きる人間に向かって、周囲はなぜかこう言うのだ──「もっと自信を持て」「成し遂げたことを数えろ」と。まるで一輪の花に向かって「なぜ自分で咲いたことを褒めてあげないんだ」と語りかけるように。

だが、もし花が咲くことにしか価値を見いだせなかったなら──咲けなかった日々に名前を与えるためには、何かしらの呪いが必要だったはずだ。

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「できない日々」にも意味があったのだと認めるためには、逆説的な手順を踏まねばならない。たとえばそれは、穴がそもそも空いていなかったことを証明することではなく、むしろ穴に名前をつけることなのかもしれない。そう、穴とは「なかったこと」ではなく、「あったこと」に他ならないのだから。

だが、劣等感に名前を与えることは難しい。それは視えないまま私を裏から支えており、名前を呼んだ瞬間に、それは私の中で別の形に変貌するからである。たとえば、劣等感という名の苔が、しだいに自己愛のように変化していく。あるいは謙虚さとして社会に受け入れられてしまう。あるいは承認欲求として語られるようになる。

本当は、どれも当たってなどいない。ただ穴がそこにあるということ、それだけが本当である。

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そしてこの穴の所在にこそ、社会の巧妙な罠が仕掛けられている。劣等感を乗り越えた人間のみが救われるという物語。自己肯定こそが成功の鍵であるという通念。いつしか、自信を持てないことそれ自体が、新たな劣等感の温床となっていく。そうして、乗り越えられなかった者は、再び穴のなかへ戻っていくのだ。まるで彼/彼女のほうに落ち度があったのだと言わんばかりに。

だが、ひょっとするとこの構造そのものが、私たちの劣等感を温存するために存在しているのではないだろうか。欠けているという感覚を手放すまいとする、無意識の意志──いや、もしかしたら「欠けている感覚こそが本当の自分だ」と思いたいだけなのかもしれない。

どちらにせよ、その穴の輪郭を撫でまわすことで、私はかろうじて「自己」と呼ばれる何かの形をなぞっている。

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劣等感とは、「自分を捨てられないこと」の別名である。自分を憎みながら、自分にしがみつくこと。自分の不完全さを過剰に意識することによって、逆説的に「私はここにいる」と言い聞かせているようなものだ。

ならばいっそ、その穴を抱えて眠るしかない。穴に手足を与えてやり、背中にくくりつけてやり、名前をつけてやり、時にはそれと語り合いながら、朝を迎えるしかないのだろう。

それができたとき、私たちは少しだけ寛容になれるのかもしれない。自分の傷にも、他人の傷にも、少しだけ優しくなれるのかもしれない。

なにしろ、人間という生き物は、誰しも一つや二つ、自分だけの「見えない穴」を飼って生きているのだから。