私には信仰心がある。

このことをずっと人に話せなかった。宗教に勧誘をするわけでも、無理やりお説法を聞かせるわけでもない。何も悪いことはしていない。

しかし、私にとっての心のお守りを良く思わない人も世の中にはいる。

だから私は世の中に対して、理由のない後ろめたさを感じながら生きてきた。
それはいつの間にか、「信仰心がある」という一種のコンプレックスになっていた。

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私の祖母は仏教系の宗教の信者だった。あることをきっかけに、私の両親も入信した。私はその時、母のお腹の中にいた。つまり、私は生まれる前から宗教とご縁があった。
自分にとって宗教はあまりにも身近な存在だったので、自分に信仰心があると認識していなかった。子どもの言葉で言うなら「お寺に行く」「なむなむを言う(南無阿弥陀)」が私にとっての信仰だった。

けれど次第に、「宗教に入っていること」は、世間的にあまり良い印象を持たれないらしい、ということに気づき始めた。
小学生の頃、「お寺に行く」と家族以外の大人に話した時、相手に怪訝な顔をされた。その話を母が聞いて、「びっくりする人もいるから、他の人にお寺の話はしないでね」と言った。

それ以来、人に宗教の話をしなくなった。それと同時に、私の心の中に育まれてきた信仰心は、行き場を失ったような感覚になった。やがて私は、「信仰心があるせいで自分の未来が狭まっているのではないか」と感じるようになってしまった。

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たとえば将来、結婚したいと思う人に出会った時、その人は私の信仰心を受け入れてくれるのだろうか。宗教に入っていると伝えたら、引かれてしまうのではないか。信仰心のせいで、私は結婚ができないのではないか。
両親が入信していなければ、こんな葛藤は生まれなかったのかもしれない……と考えてしまうこともあった。
信仰心を捨てられたらどんなに楽になるのだろう。信仰心は大切にしたいのに、信仰心を持つ自分の心を恨みたくなる瞬間が増えていった。

そんな中、信頼している友人の紹介で、カウンセラーの方と出会った。カウンセリングを受けるつもりも、宗教の話をするつもりもなかったのに、気づけば信仰心を持っていることを打ち明けていた。
その方は驚くこともなく、信仰心がある私を受け止めてくれた。母に「他の人にお寺の話はしないでね」と言われて以来、初めて人に信仰心の話をした。
その瞬間、押し殺していた心がふっと解放された。
信仰心を隠し続けることに、心が限界を迎えていたのだと気づいた。自分の心がやっと呼吸を取り戻したような感覚だった。

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この出会いを契機に、少しずつ自分の信仰心を人に話せるようになった。
自分も宗教の信者であるという人や、神仏に肯定的な印象を持つ人との出会いも増えていった。
宗派や信仰の対象が異なっていても、信仰心を持って生きている人は世の中にたくさんいることを知った。宗教の繋がり以外でも、信仰について包み隠さず話ができる友人ができた。私の信仰を受け入れてくれるパートナーとも出会えた。

そして私は、コンプレックスに感じていた自分の信仰心を、少しずつ受け入れられるようになった。
もし信仰心を持っていなかったら、今とは全く違う人生を歩んでいただろう。これまで出会った人とも、きっと出会えていなかった。そう考えると、宗教とご縁がある人生で良かったと、今は心から思う。

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世間には、まだまだ宗教に良い印象を持たない人もいる。
自分の信仰心について無理に他人へ話す必要はないし、世間の目を気にして自分の心を押し殺す必要もない。
コンプレックスから解放された私は、そう思えるほどに、心が強くなったのだと思う。