これほど長い間、煩わせられるとは思わなかった。若い頃の自意識など、歳を重ねればきれいさっぱり消え去るものだと思っていた。時間が解決してくれるのだと。

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おしゃれに興味が出てきた小学5年生のある日、カチューシャをつけて登校した。新鮮で楽しい自分がいた。心も弾んでいた……はずだった。教室に入るや否や、目が合ったクラスメイトから飛んできた一言は、今でもその表情とともにはっきり覚えている。

「ゴリラみたい」。

相手にしてみれば何気ない一言だったのだろうが、見事にクリティカルヒット。意気揚々と登校した私の気持ちを一瞬で打ち砕く、実に強烈な一言だった。それに対して自分がどう答えたのか、その日一日をどうやって過ごしたのか、その後カチューシャをどうしたのか、まったく記憶にない。ただ、それ以来、私はこの年齢になるまでカチューシャをつけることができなくなってしまった。私はカチューシャが似合わない容姿の持ち主である。そう意識の奥深くに刻み込まれてしまった。子どもの何気ない言葉は、時に本当に罪である。

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それでも時間が薬となり「小5の衝撃」もだいぶ和らいでいた高校3年生の冬。癒えかかった傷が再び開くような出来事が起こったのである。

大学受験のために上京し、叔父の家に泊まったときのことだ。夕食後だっただろうか。リビングで過ごしていると、4つほど上の従兄弟がやはり何気なく言った。「普段、そんな感じで化粧もしないで過ごしてるの?」垢抜けないと言われたのだと悟った。うっすらと感じていた、東京に憧れる田舎娘のコンプレックスを的確に突かれたと感じた。メイクをするしないは問題ではない。私の顔立ちが垢抜けないのだ、と。そして何より、小学生のときに受けた一言が確実に私の意識深くに根を張り、外見に手をかけるということに対して妙な抵抗が生まれていたことに、そのとき初めて気がついたのだった。愕然とした。もう忘れていたと思っていたのに。見た目にとらわれず過ごしていけると思っていたはずだったのに。

容姿がすべてではないことは、高校生の私にもわかっていたが、その瞬間、すべてが空疎に思えた。ああ。私は、いくら上手に外見を整え、着飾ったところで、所詮は容姿に劣った垢抜けない人間なのだ。

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10代の頃に根を張った強烈な容姿コンプレックスは、50を目前にした半世紀を生きている「おばさん」にもかかわらず、未だ完全には解消されていない。ただ、一方で、すべて自分の意識ひとつで変わるということも知った。人生は誰のものでもない、自分のものだ。何を言われようと自分が好きなものを身につけて楽しめば良い、ということも。

そして、それが自信となって外見に現れてくることも。知恵がつき、若干のふてぶてしさも身について少しずつ痛みが薄れていくのであれば、歳を重ねるのは言うほど悪くはない。知恵と図太さをまとう「おばさん力」を発揮して、今ならカチューシャをつけられるかもしれない。アラフィフにカチューシャが似合うかどうかは別として。

今なお私の心には、小学生と高校生の「私」がひっそりと息を潜め、膝を抱えてうずくまっている。時折、そっと頭を撫でながら言うのだ――大丈夫、ここまでこの容姿でなんとかやって来られたんだから。心深く刺さった棘は、まだ抜けない。それでも、好きなものを身につけて生きている自分がいる。刺さった棘は、きっといつか朽ちていく。朽ちていくと信じて、私はこの容姿と生きていく。今日も、明日も、明後日も。