その日は、とても疲れていた。寝不足で、ストレスで食べ過ぎて、どうしようもないことで悩んでいた。胃が荒れて、思うように食事が摂れない日が続いていた。
ストレス発散と言えば、私にとって美味しいものを食べることなのに。美味しいものが食べられない、そのストレスでまた胃が荒れそうだった。
推しの検索画面に「アンチ」の言葉。怖いもの見たさでクリックした
まあうだうだ言っていても仕方ない、推しの動画でも見よう。パソコンの検索バーに推しの名前を入力すると、予測変換に「アンチ」という言葉が出てきた。思わず息をのんだ。
怖いもの見たさでその三文字をクリックし、棘のある声が集まった掲示板を見てしまった。コメントの多くは、外見や身に着けている物に難癖をつける等、私にとっては想定外の目線からの、真っ黒でドロドロとした言葉が並んでいた。
「あの人にアンチがいるなんて」という強い衝撃を受けながらも、目が離せなかった。一通り見て、そっとページを閉じた。
いても立ってもいられず、散歩に出た。外は雲一つない晴天で、暖かかった。
ああいう類の掲示板を見たのは、おそらく初めてだった。疲れているときに見聞きする棘のある言葉ほど、身体に悪いものはない。ぼんやりと歩いていると、道路標識が目に留まった。
……よくよく見ると、好きな赤だなあ。
それからは、ひたすら「いいな」と思う色を探しながら歩いた。芝桜の濃いピンク、少し前を歩く人の、落ち着いた水色のカーディガン。小学生の黄色い帽子。無心になって綺麗な色を探していると、いつの間にか真っ黒でドロドロした言葉は頭から消えていた。
世界はこんなにも色鮮やかなのに、あの狭い画面の中で見たものに支配されたくない。
体調は相変わらずだし悩みが解決したわけじゃないけど、ドロドロした言葉を一人で解消できたことに、少し気分が晴れた。
誰かの愚痴や不満を自分事のようにしていた私が変わった理由
今までの私は、見聞きしたすべての言葉を素直に吸収してしまう方だった。誰かの愚痴や不平不満を聞くたびに、自分が言われているかのように気が滅入った。うまく聞き流すことができず、ただただ心が削られていた。だが最近は、思いつめることが少なくなった。
何故だろう?一瞬疑問符が浮かんだけど、すぐに解決した。ここ数年で日々、いろんな人の言葉に救われているからだ。
身近にいる大切な家族からの言葉、推しが放つ一言一言はもちろんだが、最近はSNSで繋がっている見ず知らずの人たちからの言葉に、励まされたり癒されたりすることが多くなった。
「季節の変わり目だし、とにかく無理せず行こうね」
「近所の桜が咲き始めてた!」
「週末だし、美味しいもの食べてゆっくりする~」
何気ない呟きからその日に起きたとんでもないエピソードまで、さまざまな言葉が飛び交うSNS。それぞれが日常を切り取って自由に情報発信をしているけど、節々に優しさが感じられる。ただ「いいね」を送り合うだけの関係だが、その程よい距離感が心地良い。そんなSNSの知人たちに共通している言動が「無理はしない、自分を労わって大切にする」。
私がそう思うようになったから似た考えの人が周りにいるのか、どちらが先かは分からないけど、自分にも他人にも愛のある言葉や考え方に救われて、今の私が成り立っていると気付いた。
愛ある言葉のおかげで、気付いたら考え方まで変わっていた
気分転換をしたいときは、無心になってできることをする。何気なくやった「きれいな色探し」も、きっとSNSの誰かが教えてくれたのだろう。
言葉は使う人によって、毒にも薬にもなる。人を生かし、支えて癒してくれる半面、使いようによっては深い闇に突き落とすことだってできる。私は家族や推しや、SNSの知人たちの言葉に愛を感じていた。励まされたり気がゆるんだりして、今日まで生きてきた。愛ある言葉のおかげで、気が付いたら考え方まで変わっていた。
すっかり足取りが軽くなった散歩の帰り道、花屋でチューリップを買って帰った。写真を撮ってSNSにアップした。
いざ言葉にするととても気恥ずかしいけど、私の言動が誰かに「愛」として届いていたら幸いだ。