「性格はいいけど、顔は残念だね」

元彼に言われ続けた遠回しの「ブサイク」という言葉は、呪いのように私にまとわりついた。鏡を見るたびに、その言葉がこだまする。昔やっていた音楽活動で顔を隠し続けたのは、この呪いから逃れる唯一の方法だったのかもしれない。私は自分自身を否定したまま、表現者になろうとしていた。

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そんな頃、仲のいい男性のアーティストがいた。彼は息をのむほど美しい顔立ちで、ルックスばかりが注目されていた。私は彼の面白い話や、曲作りの情熱に惹かれて仲良くなった。そしてひたすら彼が羨ましかった。見た目がいい。それだけで観客から評価される。「私も見た目がよければ、もっと評価されたのかな……」と常に心の中で思っていた。

しかし彼は「かっこいいですね」と見た目ばかり褒める客にうんざりしていた。切れ長の涼やかな目を細め「音楽を聴いてほしいんだよね」と何度も嘆いていた。その嘆きを聞くたび、私は心のどこかで安堵していた。私を苦しめた「見た目」という呪いが、彼をも苦しめている。歪んだ安堵の中で、自分の心の醜さに嫌気が刺した。

その瞬間、私はようやく気がついた。 ずっと嫌いだと思っていたのは、自分の顔ではない。 誰かと見た目を比較し逃げていた、卑屈な心だったのだ。コンプレックスを利点に変える方法は、完璧な自分になることではない。ありのままの自分を愛し、その自分を活かすことなのだと。

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この気づきを得てから、私の表現方法は一変した。「見た目がよければ評価されたのに」という言い訳を、すべての活動から排除すると決めた。私は活動の方向性を根本から見直した。「顔を出さない表現」も「自信がないから隠す」のではなく、「声とメッセージを研ぎ澄ますため」の戦略として捉え直した。

見た目を隠すなら、聴く人を惹きつける声、言葉、世界観で勝負するしかない。表現者としての土台を見直すべく、ボイストレーニングに通い出した。先生は言った。「あなたの声には、優しさと同時に強い影がある。その影が、他の誰にも出せない深みになる」と。元彼の言葉や、美しいアーティストへの複雑な感情の中で私が抱いてしまった「コンプレックス」そのものだった。それを欠点ではなく唯一無二の「表現」として受け入れ直した。

そして、観客は顔を見ていたわけではなかった。私の人間性や、「声」に乗った正直で重みのある「言葉」だ。この経験は、私にとって大きな確信となった。思い返せば、観客は私の見た目について一度も言及していなかったように思う。見た目を気にしていたのは、私だけだったのだ。

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最近、顔を出さない表現者が増えている。それは見た目という先入観なく、自身の表現をまっすぐに受け取ってほしいという願いからではないだろうか。かつて顔を隠していた私も今ならわかる。人は見た目の奥にある声や、言葉、そして心を求めているのだと。

さらに心を救ってくれたのは、今の夫だ。彼は他人の容姿について良いも悪いも一切言わない。私と付き合った理由を聞いたとき、驚いた。「話が面白いから」と彼はニコニコしながら言った。夫は美容院から帰った後も、髪型や色の変化に気がつかない。

「どう?」と自ら感想を聞きに行けば、「いいんじゃない」と毎回同じセリフが返ってくる。新しい服を着て見せても、うまくいったメイクを見せても、同じ反応だ。しかしそんな態度や言葉が、心の支えになっている。

コンプレックスは、私の声に深みを与え、言葉に重みをくれた。それは誰にも真似できない、私だけの強みとなったのだ。そして今、私は鏡を見るたびに思う。この顔は私の物語を紡いでくれた、大切な顔なのだと。