文学が好きだから、「文筆家」「物書き」の肩書に悪態をつく
「文筆家」ってなんだよ。Twitterのプロフィール欄にそう突っ込む。
最近ハマっているサイト、かがみよかがみで面白いエッセイを読むと、投稿者のプロフィールを見に行く。時々Twitterアカウントが連携されており、そのアカウントに飛ぶと「文筆家」や「物書き」というワードをプロフィール欄に見かけることがあった。関連アカウントにも自称「文筆家」がたくさんいる。
「文筆家」とは。ググると「文章を書くことを職業とする人」を指すらしい。小説家でもなくエッセイスト、ライターでもない、いまいち正体を掴めないその職業に、胡散臭いと悪態をつきつつも、そう名乗れることを羨ましいと思った。
文学が好きだ。太宰治の感傷に浸り、三島由紀夫の泥臭さに辟易とし、小川洋子の世界観に飲み込まれ、津村記久子の憂鬱に感情移入した。
小説に圧倒されてきたから、作者の彼らを化け物だと思う。文章を書くことが好きで、無邪気に小説家になりたいなんて思ったこともあったが、いつしか思わなくなった。
化け物達と肩を並べられる気がしなかったのだ。部屋の本棚の隙間とともに、文章を書く意欲もなくなっていった。
大学在学中に就職活動をする際、小説家になれなくても文学に関わりたいと思い、出版社をかたっぱしから受けた。が、全て落ちた。
慌てて就職活動をし直して、今いるIT系の企業に就職し、それから6年間システムエンジニアをしている。
読んでみた文章。彼らは化け物ではないけど、確かに文学だった
「文筆家」ってなんだ。どれどんな文章を書くのか読んでみよう。Twitterのフォロワーが多い、文筆家を名乗るアカウントにはられたリンクからエッセイを読む。
面白い。化け物じゃないくせに。
彼らは化け物ではないが、彼らの文章は確かに文学だった。
今の時代、紙に印刷して書店に並ばなくても、人に文章を読んでもらうことはできる。作品を他人に読んでもらうハードルは昔と比べてずっと下がっていた。文筆家を名乗る人々の多くはnoteやブログで自分の文章を公開し、たくさんの読者を得ていた。
小説家にどうせなれない、編集者にもなれなかったと、私が文学を生み出すことを早々に諦め、文章を書くことが好きであることすら忘れていた間、化け物じゃない彼らが文章を書き続け、読者を得ている。
なんてことだ。
私は今まで何をしていたのか。
私の根っこは文学で、仕事はシステムエンジニア。それでいいんだ
私は今までシステムエンジニアとして働いてきた。
そう、きちんと働いてきた。
年に一度の人事査定でコツコツと上げてきた給与は、充分に生活し、時々ちょっとした贅沢もできる額になった。その金額は私の社会的需要を表し、私の自信になっている。
それに、ありふれた仕事が必ずしもつまらないわけではなかった。システムエンジニアなんて子供のなりたいランキング圏外間違いない。それでも、真面目にやってきて技術を身につけると、私にとっては楽しい仕事になった。
私にとって、文学的文脈はシステムエンジニアに必要な論理的ロジックを凌駕する説得力がある。私という人間の根っこは論理性より文学だ、本だ。
しかし、かがみよかがみでエッセイを書き出してようやく、文章を書くのが好きだった、小説家になりたかった、なんて思い出したようにのたまう私は、この先も文筆家を名乗れることはないだろう。
それでいいのだ。今となっては。私には私ができる仕事がある。
文学を仕事にできなくても、文学を自由に楽しむことはできる。システムエンジニアという仕事は私の一部であって私の全てではない。
そう自分を納得させて、今日もフォロワーが多い文筆家達を少しだけ羨みながら、noteにあげられた彼等の創作を楽しむ。