嫌味に聞こえた「昔は」という言葉と、SNSに翻弄される現代の私
「今と比べて昔は…」
子どもの頃、祖父母や両親に時折言われてきた言葉。幼少期の自分にとって、この言葉は嫌味以外の何物でもなかった。
ガラケーやポータブル系のゲーム機が少しずつ普及してきた時代で、私は幼少期を過ごした。家にこもり、ゲームばかりしては親や祖父母に怒られた。テレビにかぶりついては、外で遊んできなさいと注意された。そういう時は決まって、「最近の子は…」なんて嫌味を言われる。ゲームばかりしていた私も悪いけれど、この時代に生まれてきた以上はどうしようもない。そんなに昔が恋しいなら今すぐ車を売り飛ばして参勤交代でもすれば?
時間はあっという間に過ぎて、今では私も立派な大人。いや、大人と胸張って言えるほどの精神年齢ではないかもしれないけれど、一応合法的に飲酒や喫煙ができる年齢にはなった。
現在の私はスマートフォンが手放せず、常にインターネットやSNSと隣り合わせの生活を送っている。音楽活動をしている私は、特にライブの告知や活動報告などで頻繁にSNSを利用する。しかし知名度が0に近い私は、SNSの「いいね」数は2桁つけばいいほう。SNSにはのめり込まないと決めていたはずなのに、うっかり「いいね」数に翻弄されてしまう瞬間がある。自分から手を出しておいて言える立場ではないが、SNSなんてなくなっちゃえばいいのにとさえ思った。
簡単に連絡できる現代では味わえない文通のわくわく感に昔を思い出す
こんなちょっとした苦い体験を味わってから、ふと祖父母や両親が話していた「昔」について考えた。私という一人の人間が生きているうちに流行りも常識もどんどん移り変わっていく。私はその目まぐるしい変化についていけなかったのかもしれない。
小学生の頃、いとこと文通をしていたことがある。隔週だった分伝えたいことがたくさんあって、利用した便箋は1通につき4枚を超えた。書き終えてから投函するまでのプロセスにもわくわくした。2週間おきに届く返事が楽しみで仕方がなかった。
そんな私たちも、今ではスマートフォンでやり取りをする仲になった。文通とは比べ物にならないほど便利だが、文通のようなわくわく感は味わえないのだと思うと時折むなしくなる。そんなむなしさを覚えたときにも、祖父母や両親に「昔」、「昔」と言われた過去を思い出すのだ。
今ならわかる昔と比べる気持ち。この気持ちを胸に現代を生きていく
「昔」を連呼する彼らは、私が文通のプロセスにわくわくしていたように、現代では味わえないわくわく感を味わっていたのか。もしくは私がSNSに翻弄されたように、彼らも現代ならではの何かに苦められていたのか。これらは全部私の憶測にすぎないが、今と昔を比べてしまう気持ちが何となくわかった気がした。
とはいえ幼少期は「昔」、「昔」と言われ続けて息苦しい思いをしたので、さすがに現代の若者に「今の子は」なんて言葉をかけるのはよしておこうと思う。
現代は便利な一方、むなしくて生きにくい。コミュニケーションはあっさり済んでしまうし、「いいね」数にはどうしても振り回されてしまう。けれど過去に戻ることなんてできないし、過去に戻ったらそれはそれで不便なことも多い。だけれどやっぱり現代は生きにくい。
でも、これらの経験や考えを文章にまとめたことで現代の生きづらさを改めて実感し、SNSやコミュニケーションにもやもやしている自分の心の整理をできただけで良しとしよう。そして文通のささやかな思い出は、そっと心の中にしまっていつまでも温めておこう。