書くことで記憶と感情が整理され「嫌な思い出フラッシュバック」が減った
これまでわたしの書いてきたエッセイは、わたし自身の過去の話である。特に恋愛に関しては、友人には言えないけれど、エッセイになら書けたということがいくつかあった。
なぜだろうと考える。
わたしは、友人や職場で、それぞれのキャラを持ち、その自分でリアルの生活を営んでいる。まあこれはわたしに限らず、多くの人がそうだとは思うが。その「キャラ」の中で、例えば純粋イメージがあるのに会ったその日に付き合うなんて、なんかちょっとヤダ、というような「解釈違い」を起こされるのではないかという恐れを抱いているから、リアルでは言えないことがでてくる。
その恐れを飛び越えて、自分で自分の気持ちを言葉にするとき、時々涙が出てしまうことがある。意見をいう時、ちゃんとリアルのやりとりのなかでできるだけ正確に伝えなきゃと思う。ちゃんと受け取ってもらえるだろうかとウダウダと考えてしまう。それぐらい、「打ち明ける」ことは、勇気のいることだ。
でも、この場所なら、自分の冷静な頭で、言葉をゆっくりと探すことを許される。受け取ったかどうかなんてわたしにはわからない。だから、安心して書けるのだと思う。
誰にでもない、不特定多数が読むからこそ、「打ち明ける」ほどの勇気が要らなかったのかもしれない。なにより、「キャラ」を横に置いておいて、「わたし」として真っ直ぐ自分自身に向き合って、思い出しながら書ける。
また、書くことで、自分の中の記憶と感情を整理することができるし、かがみよかがみに出会う前に時々あった「嫌な思い出フラッシュバック」が減っていった。それだけじゃなく、忘れかけていた出来事が、キラキラした思い出に変わることもあった。嗚呼、あの時結構楽しんでいたんだな自分、とか。
そうしていくつかエッセイを投稿していた4年の間に、社会に出たばかりのヒヨッコ独身のわたしは、気づけば社会人7年目になり、結婚し、つい最近一児の母になった。
子どもってすごい。「みらい」の具現化のような存在で、ホントに何にでもなれちゃうんじゃないかと感じる。だから、ここからは未来の話をする。
わが子が見せる、部屋の片隅でスヤスヤと眠る姿、こちらに向ける曇りなき眼に新生児微笑。それをみる度、この子の生きる未来が、どうか幸せであるようにと祈ってしまう。
でも、祈っているだけじゃ何にも変わらない。自分で幸せを掴めるように、この子に対してわたしが出来ることを精一杯しよう。愛情を注ぎ、育てよう。社会のルールやモラルを伝えよう。迷ったときは一緒に考えよう。
「わたし」が「⚪︎⚪︎のお母さん、ママ」に丸ごとキャラに置き換わるのではなく、わたしがわたしのままで、わが子に向きあっていきたい。
そして、わが子をはじめ次世代を担う子どもたちが幸せに生きられるような社会をつくっていけるように、福祉の仕事にも励み、情勢を学び、選挙に行き、できることをしていきたい。
そのひとつひとつが、きっと社会を変えられると信じて。

かがみよかがみは「私は変わらない、社会を変える」をコンセプトにしたエッセイ投稿メディアです。
「私」が持つ違和感を持ち寄り、社会を変えるムーブメントをつくっていくことが目標です。
恋愛やキャリアなど個人的な経験と、Metooやジェンダーなどの社会的関心が混ざり合ったエッセイやコラム、インタビューを配信しています。