季節の変わり目だというのに、まだ暑さが残る頃、私は会社を辞めた。
そんな夜、人生相談用のAIに、思わず「消えてしまいたい」と打ち込んでしまったのだ。返ってきたのは、「利用規約に違反しています」という冷たい文字列。そのあとに表示された相談窓口に電話をかけても、営業時間外のアナウンスが流れた。
「ああ、これでは年間2万人も命を絶つ人がいるのも無理はない」そんなことを、暗い部屋でぼんやりと思った。

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私が医療現場で働いていたころ、心の不調を抱える人と関わる機会が多かった。忙殺される毎日。薬に頼る患者さんたちを見ながら、「何をそんなに悩む必要があるんだろう」「もう少し頑張れないのかな」と、心の中でつぶやいていたこともあった。
けれど今、自身が孤独の中で立ち止まる日々を経験して、ようやくあの人たちの気持ちがわかる気がした。人は本当に苦しいとき、“誰にも助けてもらえない”と感じてしまうのだと。

そんな中、「かがみよかがみ」に出会う。最初は絶望から回復した話を読むが、その後、だんだんとセクシャルな話へ。大胆な話に「ああ、私もこういうことを平気でできる人間だったら、もっと楽に生きられるのかな」と、なかば羨ましいような、でも少し違和感を抱きながら、自分が踏み出せない世界に浸る。

思えば、私も仕事でセクハラにあっていた。
やりたいと思っていた部署から、「使えない」とレッテルを貼られ、別の仕事に異動する。異動後に、当時の上司の一人と行った出先で、事は起きた。

大量のお酒を飲まされ、呂律も回らない夜。「俺と付き合おう」「俺の部屋に来て」としつこく口説かれ、ホテルの部屋に連れ込まれそうになった。「この人と寝れば、少しは出世もできるのか」そんな考えが一瞬、頭をよぎる。だけど、私の中の強い正義感のような、なかば潔癖症なもう一人の自分が、全力で止めてくれたのだ。

午前2時。私はホテルを飛び出し、夜の街をスリッパで歩いた。上からトレンチコートを羽織るが、中はパジャマのまま。ベンチに座っていたら、若い男性に声をかけられそうになったので、立ち上がり歩き出す。LINEには「俺と寝るのはそんなに嫌?」のメッセージ。

翌日はもれなく二日酔い。「付き合うことを考えといて」「今度デートしよう」と、帰りの車中で言われ続ける。私は我慢して、我慢して。本当は車のドアを開けて逃げ出したかったが、どんな報復があるか怖くてやめた。その後、彼は別の女性に夢中になり、私のことは見向きもしなくなった。あのとき、間違っても寝なくてよかったと思う。

そんなことが噂になり、私もいろいろ聞かれたが、本当のことは言いたくなくて、笑い話にしてごまかした。結局、彼はいくつかのトラブルを起こし、会社を去っていった。

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今でも、あの傷が完全に癒えたとは言えない。彼は加害者だったけれど、同時に、会社で孤独だった私にとって、話を聞いてくれる数少ない一人でもあったからだ。その複雑な思いは今も心のどこかに残っている。

もしかしたら、自分で思っている以上に深く傷ついていたのかもしれない。あの出来事が、私が会社を離れるひとつの転機になったのは確かだ。
ときどき“不倫”や“ワンナイト”という言葉を耳にすると、眠っていた記憶がふいに目を覚ます。あの夜の光景と、彼の不格好な唇の形が、まぶたの裏に焼き付いたまま離れない。それが、今も私の中に残る“嫌悪”の源なのだと思う。

令和になってしばらく経った今でも、女性の立場が弱い場面は少なくない。いや、きっと女性だけでなく、立場の弱い男性もいるはずだ。
だから私は、自らの経験を「発信する」ことで、どんな人でも声をあげられる社会をつくりたいと思っている。こうして書くことで、ようやく自分の中の傷に向き合い、少しずつ癒せるようになってきたからだ。そしていつか、私の言葉が、誰かの小さな救いになることを願っている。