異動したばかりの部署で感じた違和感が積み重なり、退職を決意した

28歳、あてもなく会社を辞めた。
結婚するわけでも、給料が高い会社に転職するわけでも、ない。日々の仕事を評価され、数か月前に異動したばかりの部署。周囲からも「期待されてるね」「楽しいでしょ」と声を掛けられていた。

しかし、異動直後から、私はひどく困惑し続けていた。
おかしいと思い始めたのは、私の知らぬ間に、担当していた仕事が他の同僚の担当に変更されていた日。社外社内とも評価の高い上司。きっと何か考えがあってのことだろう。最初はそう思っていた。

しかし、小さな違和感が、少しずつ積み重なっていく。上司からの連絡が私だけ届いていない、会議で私の作った資料だけ使われない……私のなかで、悪い確信に変わっていった。

私に対する上司の行動の理由も分からず、眠れぬ夜が続き、ある朝、目覚めたとき、体が動かなかった。ベッドから起き上がれなかった。初めて遅刻をした私を呼び出した上司は、困った顔をして「近頃、精神的に不安定なんじゃないか。心配だ。」と言った。
もう全部やめてしまおう。私は決意した。

会社を辞めて2日。私は社会の余白に迷い込んでしまったかもしれない

私の差し出した退職届を、理由も聞かずに、上司は受け取った。最後は逃げるような「退職」だった。
同僚たちから花束をもらう前に、別れの言葉を言われる前に。
退職日の退勤時間、私は、自分が使っていたデスクの引き出しの鍵だけを持って、座っている上司の前に置き、会社を出た。

会社は週休2日だった。1日は、美術館や映画館など、行きたい場所に行く日。もう1日は、家で体を休める日と決めていた。そう決めていたものの、私は休むのが下手だった。
実際、手が空くと、自然に、仕事のメールのチェックやスケジュールの確認をしていた。誰かに必要とされたい。認められたい。私の強い欲望は、仕事で叶えられるものだった。

会社を辞めて2日目。市役所の次は、ハローワーク。学校では教えてくれなかった「仕事を辞めた人」の手続きを、戸惑いながら、すべて終わらせる。
カフェで、求人情報をチェックしながら、ふと、今日は、私にとって休日なのか気になった。

こういう日は何と呼べばいいのだろう。休日ではない日を迎えるための、人生の「余白の日」?カフェの前で忙しそうに歩く人たち。私は、社会の余白に迷い込んでしまったのかもしれない。

記録になんて残らない生活は、人生そのものだったと気付いた

次の仕事を探しながらも、部屋に居続ける毎日。辞めなければよかった?我慢すればよかった?自分の選択を肯定できない毎日。不安を紛らわすため、お風呂掃除をした。
バスタブとタイルを徹底的に磨き上げる。とても気持ちがいい。勢いがついて、台所、玄関、クローゼット……隅まで掃除をしていく。

食器を拭きながら、昨日食べたものを思い出す。靴を磨きながら、自分の歩いた跡を見つける。

生活って、人生そのものだったんだ。今まで、仕事から帰宅し、煩わしく、流れ作業のように終わらせていた家事たち。私が私自身を見つけてあげなきゃいけなかったんだ。台所では洗ったばかりのコップから水滴が落ち、ベランダでは干した洗濯物が風になびく。

記録になんて残らない生活、それら全てが私の存在証明だった。
社会の余白に迷い込んだと思っていた。でも、そんなことは全くなかった。世界から私が突然いなくなっても、ここに「私」が残っている。

平日の昼、目的もなく町を歩く。仕事帰りにはシャッターの瞼を閉じた商店街の、新鮮な昼の顔。一軒の古道具屋の軒先、錆びた鉄製の机を見つけた。机なんて買う予定はなかった。

でも、もし、明日、あの机がなくなっていたら……。一晩中、机のことで頭がいっぱいだった。

翌日、思い切って、店内に入る。古道具屋のご主人は丁寧に説明してくれた。1950年代のアメリカで作られた、タイプライターを置くための机だと言う。「えらく錆びがあってね……」という主人の言葉を遮り、購入する意思を伝えた。

翌日、知人から、仕事の紹介があった。
仕事が始まっても、私は、私の余白ごと全部、新しい机の上で記していきたい。