大人たちは悲しげに笑った「感性は不可逆だ。失ったら戻ってこない」
私にとって「書くこと」は自分を生かすことだ。
書くことで、私は自由になれた。
耐え難い理不尽さと燃えたぎる怒りに疲れて心が折れそうになった時も、誰かのぬくもりに泣き出したいくらいの感謝を覚えた時も、「海音」に語らせることでその激しい感情と向き合ってきた。
書くことで、湧き上がる感情を見つめ、名前を与え、抱きしめて受け入れていく。その過程を通して私は自分自身を認めて生きてきた。
そして、かがみよかがみに載った言葉たちがエッセイという形を持ち、顔も名前も知らない誰かの心に届いた時、心の奥底が暖かくなる感動を覚えた。
自分のために書いた言葉だったけど、エッセイになったことで、誰かのための言葉になれた。
読者からのコメントを読んだ時の感情は、他の何でも再現などできない。
かがみよかがみは、私にとって「自分でいられる場所」だった。
私の言葉はいつだって届かなかった。
幼少期、声の大きい姉と兄には末っ子だからという理由で、何も聞き入れてもらえなかった。
学校では、人望もないのに勉強だけが多少できたせいで、まだ遠慮を知らなかった私の口から飛び出す幼い正論へ、周囲からすかさず冷たい視線が飛んできた。いつしか人前に立つことを避けるようになった。
今だって何も変わらない。職場では、私の声は何重にも凝り固まったフィルターを通してしか届かない。おじいさん上司たちにとって都合のいい単語だけが摘み取られて、身勝手な解釈をされた上でしかインプットされない。
だから、あえて「はい」「違います」「そうですね」の3単語しか発しないことで沈黙の抵抗をするようになった。
少しでも自分にとって有利に動くように言葉を選んで、生きてきた。
いつだって大量の言葉が脳内に溢れるのに、その一割も出さずに沈黙を選んだ。何を言うかではなく、自分がどの立場であるか、でしか発言には価値がつかない。それはどこに行ったって、大人になったって、一緒だった。
だからこそ理論武装するようになったし、ずるくなっていった。
大学生の時、ふとしたきっかけで「かがみよかがみ」に出会って初めて、「書くこと」による開放感を知った。
書くことで、平坦に生きていくために課したリミッターを全て解除し、自由になった感性に突き動かされて、観客のいない舞台で、私だけのステージ上で踊り出す。内側から湧いてくるステップに合わせて、全身で踊る。
理屈なんていらない。武装する必要なんかない。
脳ではなく心が言葉を生み出す時、私は「わたしを生きている」と感じられる。
心の向くままに、でも丁寧に、自分の持つ感性の全てを使って言葉を紡ぐ。
納得がいくまで同じリズムを繰り返し踏み続けるように、何度も推敲する。
単語を丁寧に選び、時には段落ごと消して、最初と最後をひっくり返して、1つのストーリーを練り上げる。
そうして言葉が映し出した「ありのままのわたし」に出会った。
陽だまりのような穏やかな幸せも、目を背けてきた情けなさも、ほとばしる全ての感情が美しいと思えた。
その時間こそが、私をわたしたらしめていた。
エッセイを書くようになって、大きな変化があった。
私が綴る言葉が好きだと言ってくれる人に次々に出会うようになった。
隠していた感性を素直に解放した時、そこには優しい世界があることを知った。
「あなたの感性は宝物。大事にしてね」
そして感性が故に苦しむことを吐露した時、悲しげに笑った大人たちがいた。
「感性は不可逆だ。失ったら戻ってこない。絶対に失くしてはいけない。僕はもう失くしてしまったから…」
かがみよかがみという、安心して言葉を綴れる場所がなくなる今、私はどこで踊ろうか。
なかなか代わりなんて見つけられない。
SNSは疲れる。匿名アカウントだとしても。数を稼ぐための大衆化されたキャッチーコピーも、成果と充実した休日の披露宴も気が滅入る。
観客のいない舞台で踊っているつもりだったけど、いつしか目の前にいない「きっと届く誰か」に向けて私はその手を伸ばし、笑顔を向けて踊っていたんだ。いつだってそこは最高の舞台だった。
かがみよかがみに出会えて、本当によかった。
心からそう思う。
またいつか、次の舞台に出会うまで。

かがみよかがみは「私は変わらない、社会を変える」をコンセプトにしたエッセイ投稿メディアです。
「私」が持つ違和感を持ち寄り、社会を変えるムーブメントをつくっていくことが目標です。
恋愛やキャリアなど個人的な経験と、Metooやジェンダーなどの社会的関心が混ざり合ったエッセイやコラム、インタビューを配信しています。