私は画家だ。
作品を描くだけでなく、公募展への出品や展示活動、SNSでの発信も仕事のうちだと思っている。展示レポートを書くのも趣味のひとつで、好きな作品の感想を語るだけの、いわば

「作家褒め放題コーナー」。
だけどまれに、作家さんご本人から反応をいただけることがある。そんなときは、これ以上ないほど報われた気持ちになる。言葉が誰かに届く。それが嬉しかった。

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私は、他人を褒める言葉はよく出てくる。けれど、自分を褒める言葉のボキャブラリーは、かなり少ない。そして、自分を語ろうとすると、言葉がうまく出てこないことがある。

たとえば、作家インタビューを受けたとき。事前にいくつも答えを用意していたのに、実際の受け答えは想像以上に淡白だった。あのとき、もっとしっかり話せていたらと終わったあとに何度も言葉を巻き戻した。

言葉は、いつも味方でいてくれるとは限らない。

私は昔から、誰かにちょっとした贈り物をするのが好きだった。
その人のことを思い浮かべながら、「これを渡したら、どう喜ぶだろう」と考える時間が好きだった。私にとって、言葉もそれに近い。誰かにそっと手渡すように書く手紙。伝えたいことを並べる文章。そういうものを、ずっと大切にしてきたつもりだ。

けれど、そうして丁寧に選んだつもりの言葉ですら、誤解を生むことがある。

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とても親しい人とすれ違ったとき、私はLINEで自分の気持ちを伝えようとした。感情的にならないよう、できるだけ整理して、思っていることと解決策を書き送った。けれど返ってきたのは、「長文で怒られているみたいでしんどい」という言葉だった。私は、冷静な説明のつもりだった。けれど、それが相手にとっては、怒りを論理的に押し付けられているように感じられたのかもしれない。

ネットの言葉は、いくら丁寧に書いても、句読点の位置や語尾の選び方ひとつで印象が変わる。相手の状況や心の余白によって、受け取り方は大きく揺れる。特に近しい相手とのやりとりでは、その小さな揺れが、大きな断絶になることもある。

言葉は、糸のようだと思う。感情が大きすぎて飲み込めないとき、すぐに詰まり、もつれ、ちぎれる。でも、誰かを傷つけたくなくて慎重に選ぶときは、まるでもつれた糸をほどくように、ひとつひとつ丁寧に整えていく。

SNSやブログでたくさんの言葉を綴るときは、毛糸玉をひとつひとつ使い切るような感覚になる。自分の感情や思考を、少しずつほどいて、差し出していくような消耗。

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それでも私は、言葉を紡ぐのが好きだ。SNSで誰かを応援する言葉を発すると、不思議と自分自身も救われているような気がしてくる。誰かに届くやさしい言葉が、めぐりめぐって、自分を助けてくれる。
そんなふうに、やさしさが循環していく瞬間がある。

誰かを褒めるときは、きらきらしたラメ糸を編んでいるような気持ちになる。
やさしい光をまとった言葉を、ていねいに、静かに差し出す。
だけど、ときにはその糸がうまく伝わらず、相手の心の糸をチョキンと切ってしまうようなこともある。

そういうときは、あとから胸の中で何度も言葉を反芻することになる。もっと違う言い方ができたんじゃないか。もっと柔らかく、優しく、できたんじゃないか。

遠い相手には丁寧に言葉を尽くせるのに、近しい人にはなぜか言葉が雑になってしまう自分にも、少しずつ向き合えるようになってきた。
心を開いた相手ほど、どんな言葉で傷つくかを知ってしまっている。だから怖い。
そういうときは、本を読む。
誰かが紡いだ言葉にふれると、この世界にはこんなに優しく、美しい言い方があるのかと、自分の言葉の荒さをほどくきっかけになる。

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最近、嬉しいできごとがあった。ずっと憧れていた作家さんの個展に、ようやく行くことができた。作品についてたくさん話したくて、私は完全にファンとして、舞い上がって話しかけていた。

するとその方がふいに、「あなた、絵を描いてる人でしょ」と言い当ててきた。
驚いてうなずきつつ、「文章も頑張ってるんです」と話すと、「向いてると思う。すごく似合う」と笑ってくれた。
自分ではまだまだ模索中だったはずの言葉の世界に、そっと背中を押されたようで、なんだか嬉しくて笑ってしまった。

私は、優しい言葉を手放したくない。誰かの世界を少しでもあたたかくできる言葉を、これからも見つけていきたい。たとえときどき、もつれて、ほどけなくなってしまうとしても。

私は変わらない。この不器用な生き方も、言葉への向き合い方も、たぶんずっとこのままだ。
でも、私の言葉が誰かの心にそっと届いて、ほんの少しでもその人の世界があたたかくなるなら、それはきっと、世界がほんの少し優しくなる瞬間だ。