好きなものがあるのは素晴らしいことである。なぜかといえば、己が心から、心の奥底からなにかを愛せたという経験があることで、きっと誰かも、あるいはなにかも自分のことを愛してくれるのかもしれないという、そのことに気付けるからだ。

現代社会には「推し」という言葉がよく飛び交っていて、正味な話、肌感覚で言えば私はあんまり好きな表現ではない。というのもそれは、ただ好きであることを、なんだか目に見えて表すことに躍起になってしまっている印象があるからである。

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「推し活」というと、どのようなことが思い浮かぶだろうか?

私は今試しに考えてみたところ、グッズをたくさん買って集めるとか、投げ銭をするとか、あるいはインターネットでそれをアップロードするとか、そんなことが思い浮かんだ。この問いで重要なのは、それらの活動は、それを目にする人々の存在を前提としていることが多くあることである。

現代社会の「推し活」は、どうにも競争意識に働きかけられているような気がしてしまう。誰かよりも金や時間をつぎ込んだ、誰かよりも自分の方が知っている、誰かよりも、誰かよりも、誰かよりも……。

私はそれを見ていると、ああ、と思う。今、この世界では、さみしがっていて、自信のない、そういう人が多いのかもなあ、と。

人との繋がりが希薄になりつつある現代、そんなことを囁かれる反面、繋がりを求める人はうんと増えていて、その人同士の間を繋ぐ手段としてはインターネット、そして仲立ちとしてコミュニケートの話題になるもののひとつとして、推しや推し活の存在があるように見える。

近しいものを好む人と付き合いたくなる。傷付きたくないし否定されたくない、痛いことはされたくないし、したくない……その願望は必ずしも臆病さのみを映し出しているわけではなく、そこにはやさしさが、どうしようもなくやさしくてやさしい、それがあるように、感じる。

ふわふわの綿がほしい。だけど綿はしっかりと手に持ちにくい、こわごわそっと触れないと形を保つことを妨げてしまう。けれど汗や涙が滴ったらとろけてしまうし、綿同士をくっつけたら境目はわからなくなってしまう。それでも私たちは、綿を求める。

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好きなものがその言葉、推しという言葉でまだ心ごと鷲掴みにされて離されなくなってしまわなかったころ、そのころにも確かに綿はあった。好きであること、そのことの根に、核に、まわりを覆うように、やさしげに。

私たちはそのころ、たぶん、過度にその愛を誰かに見せてみたり不安になってしまうことは、あんまりなかったのではなかろうか。好きなら好きでそれでいい、たとえ誰かの持つそれと不意に比べてしまっても、なんだか急に物理的な話になってしまうが、比較対象になるようなグッズもなにもなかったし、そして再び比喩的な話に戻れば、私たちのふんわりした競争意識なんて、きっと、よりふんわりした綿みたいなそれに包まれて、ふにゃふにゃになってしまったのではなかろうか。

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そろそろ締めくくりの時間がやってきた。果たしてこの綿とはなんなのかという、私の気持ちなんかを書いて終わりにしようと思う。

現代社会の「推し」にある綿は、鶏が先か卵が先かみたいな、いつしか心に現実に日常に根付いてしまった、どうにもならない水に濡れた綿埃のようなもの悲しさたちから成るそれだ。そして過去、「好きなもの」が「好きなもの」としてあったときの綿は、誰かと比べることのない、ちょっと閉鎖的でほの暗い、心の奥底にあった、守られながらも遠くからやってくるあたたかな日差しによってふわふわきらきらした、心の底からなにかを愛せたいつかの気持ちにいずれ気付かせてくれるような、それだ。確固としない、それでもいいかと思えるような、ゆるく伸びた綿。

閉鎖的と先に書いたが、私たちはもしかすると、もっと自分のために動いてもいいのかもしれない。私は私だと、これが私だと、そして、これが私の好きなものなんだと、胸を張って恥も恐れず笑えるような。

好きなことに証拠なんていらないのだと思う。なぜ好きなのですかと問われたら、こう答えればいいのだ。

好きだから好きなのです、と。誰の目も届かない心の底にある綿の温もりを、そっと感じながら、慈しみながら。