「僕は恥ずべきことが無い、恥ずかしくない生き方をしたい」
卒論に追われて遅くまで籠っていた図書館からの帰り道、同期の男の子がぽつりとつぶやいた。
まだ桜のつぼみが膨らむ前の、凛とした空気が張り詰める夜の道。
ここは田舎だから、車も通らない。静かな、漆黒の夜空に月の光が妙に強く感じる早春の夜と彼の声。どうしてだろうか、今も時々思い出す。どうして突然彼はそんなことを言ったのだろうか。しかも親友でも、恋人でもない、ただの私に。
充足感を持ちながら生きるために、立ち止まって考えなきゃいけない
どんなキャリアを歩みたい、どんな人と結婚したい、どんな家族をもって、どんな老後を過ごしたい。よくする他愛ない話題とは違う。自分は、この世界において「どういう人間でありたい」か考えたことがあっただろうか。
生き方。きっと職業が変われど、住む場所が変われど、隣にいる人が変われど、年を取れど、世界が変われど、変わらない。誰にも邪魔されずに自分の中で大切にし続けるものが、常に北を指し続ける私の方位磁針になるのだろう。そしてそれが指す方向に歩み続けることで道ができ生き方(行き方)になっていくのか。
じゃあ、私はどう生きたいのか。人にどう見られたいかではなく、私が私に満足して充足感を持ちながら生きるためには今、立ち止まって考えなきゃいけないと思う、きっと。
もしかしたら、方位磁石を買い替える時があるかもしれない。それでも、やっぱり、愛と優しさと希望と、憎しみと厳しさと絶望が混じりあうこの世界を、他の誰でもなく「私」として生きるのならば。私の方位磁石を手の中に持っていたい。
どう生きることが私にとって「まっとうな」生き方なのだろうか
私はどう生きてきたのか。そして、どう生きていくのか。
ただ真っ白で、ただただ大きいキャンバスに筆一本で向き合ってるかのような気分にさせられるではないか。
その時に思い出される、あの晩、響いた彼の声。
「僕は恥ずべきことが無い、恥ずかしくない生き方をしたい。」
はじめは何となく、彼らしいな。と思った。
ならば私は、どう生きていくのか。
こんなこと、普段考えていない限りすぐには思いつかない。
一言にまとめる必要なんてないし、まとめられないとも思う一方で、毎日持ち歩く方位磁石は正確で軽い方が良いとも思う。
ふとした瞬間に考えて、考え続けているのに、私はどのように生きてきてどのように生きていくのだろうか、わからない。どう生きることが私にとって「まっとうな」生き方なのだろうか。この窓ガラスの向こうに歩く人たちの中に「生き方」という考えがそもそもあるのだろうか、とビターチョコレートのような深い薫りの苦いコーヒーを一口すする。陶器の滑らかさが唇に残る。
自分に対して恥ずかしいことも後ろめたいこともしたくない
呆れてしまうくらい、言葉にできない。いや、言葉にするのが怖いのか。私はどう生きたいのか。
正解なんて存在しないのに、彼の言っていたことが正しく思えてくる。とても現実的で、いつもそばに置いておくにはぴったりな方位磁石な気がしてしまう。
「いつも笑顔でいられる生き方」、も素敵なのかもしれない。でも、どうしても私には嘘っぽく聞こえるし、無理だろう。自分ではコントロールできないことが起き続ける大きな世界の小さな私がいつも笑顔、なんて無理だ。
でも、恥とか後悔とかそういう感覚がなく生きられたら…とは思う。
恥は恥でも失敗したときにかく、人に対するあの恥じゃない。
人として自分の言動を恥ずかしい、と思う瞬間の自分に対する恥だ。そして、その言動を選択した自分への後悔だ。自分に対する恥は心をぎゅっと締め付けると同時に自分の外の世界に対しては後ろめたさまで生む。勝手に顔を上げて歩きづらくなってしまう。
たとえ、このコーヒーの苦みのようにしばらくすれば消える痛みであったとしても。
生き方はリセットできない。
昨日の自分からバトンをもらって、明日の自分へ繋いでいく。
だから、自分に対して恥ずかしいことも後ろめたいこともしたくない。
自分にだけは嘘をつきたくない。その繰り返しが自分を見失うことに繋がるから。
いつも心も体も健康で、何より自分のことを好きで生きたい。
だって、どんなに嫌になっても私は私を辞められない。私は私から逃げられない。私は私のまま続いていく。最後の日まで、ずっと。
だから私は自分に対してはいつも胸を張って生きたい。
あなたはどういう「生き方」してるの。したいの。