ゴールデンレトリーバーのキリクがうちにやってきたのは、私が小学校1年生の時だった。母と妹と私、女ばかりの我が家に男の子がやってきたと、父はたいそう喜んだ。
キリクはとても頭のいい犬だった。お手もおすわりもすぐ覚えたし、散歩が終わったら自分で犬小屋に帰っていくおりこうさんだった。
一方で、私と妹はとてもお行儀が悪かった。椅子の上に体操座りをしてご飯を食べようとすると母は「あんたたちっ! キリクを見習いなさい!」と犬を見習うように言った。
友達がいなくても、寂しい思いをしなかったのはキリクがいたから
小学生の頃、友達が少なかった私は、放課後いつもひとりだった。田んぼに囲まれた500mくらいある一本道を1人で歩いていると、向こうからキリクが走ってきて、ちょうど真ん中くらいで合流する。
「キリク! ただいま」
と、声をかけると、キリクは尻尾を振って「ワンっ!」と吠え、飛びついてくる。
私はランドセルをカタカタ鳴らせて、キリクと一緒に走った。ある日は神社で一緒に階段を駆け上がり、ある日は道なき道を探検した。友達がいなくても、寂しい思いをしなかったのはキリクがいたからだった。
それから10年以上経ち、私は大学進学のため、家を出た。帰省すると、真っ先に出迎えてくれるのは、キリクだった。
「キリク、久しぶり!」
と声をかけると、まっすぐ走ってきて「ワンっ!」と飛びついてくる。そのたびに私は、キリクは私のことを待っていてくれたんだと思った。
私が家を出て二年後、妹も神戸へ出た。妹も帰省すると、
「キリク、元気?」
と声をかける。キリクは「ワンっ!」と飛びついて尻尾を振る。
「キリクは、私のことが一番好きだね」
と妹が言った。
「キリクが一番好きなのは私だ」と私が言うと「俺だ」と父。「何言ってんの。毎日ご飯出して散歩している私でしょ」と、母。そう言い合う私たち家族を見上げながら、キリクは尻尾を振って、笑っているように見えた。
キリクは怪しいおじさんと遊びたかっただけなのかも
ある年の夏、家族全員が実家に揃っていたお盆のことだ。無精ひげを生やした「怪しいおじさん」が、玄関先に現れた。
母いわく、以前から勝手にポストに資料をいれてゆくどこかの宗教の人で、何度断ってもやってくるので、迷惑しているとのことだった。
私がキリクと散歩から帰ってくると、怪しいおじさんらしき男性が、インターホンを鳴らそうとしていた。キリクはおじさんの姿をみるなり「ぐるる」と喉を鳴らしたあと、すごい勢いで走り出した。
(おおっ! キリクが、怪しいおじさんを撃退しようとしている……!)
私は「やっぱりキリクはかしこいなぁ」と思いながら、さすがに怪しいおじさんとはいえ、怪我をさせてはいけないと、キリクを追いかけた。
「ワンっ!」
キリクは大きく吠えると、怪しいおじさんに飛びかかった。怪しいおじさんは尻もちをつき、後ずさりしたあと、かばんを抱えて一目散に逃げ出した。
「キリク! お手柄だね!」
ふり返ったキリクの顔を見て、私はおもわず吹き出してしまった。
キリクの顔は、私たちを出迎えてくれるときの笑顔そのものだったからだ。
それ以来、怪しいおじさんは姿を見せなくなった。
母は「キリクは頭がいい。変なおじさんを撃退させたんやわ」と目を細めたが、私は内心、人間って本当に都合がいい生き物だなぁ、と思った。キリクはただ、怪しいおじさんと遊びたかっただけなのだ。
今年も変わらず、キリク桜は美しく咲いた
それから数年後。妹が成人した年に、キリクは死んだ。母は妹に「キリクはあんたが成人するのを待って、死んだんだわ」と言って泣いた。でも、ただの老衰だった。キリクを埋葬し、桜の木を植えた。
数年後、桜はかわいい花を咲かせるようになり、私たち家族はその桜を「キリク桜」と呼ぶようになった。
もうすぐキリクの6周忌だ。
「今年もキリク桜が咲いたよ」と母からLINEが来る。
帰省もできない大変な世の中だけど、人間界の混乱をよそに、今年も変わらず、キリク桜は美しく咲いた。
「今年もキリクが見守ってくれている」
キリク桜は私たちのために咲いているわけじゃないけれど、都合よく勇気をもらって、勝手に未来への希望を馳せている。